ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」58 濱家さんの恩師に負けないわたしの恩師たち part1

 朝日新聞で連載されていたお笑い芸人「かまいたち」の濱家さんの取材記事を見て、非常に共感することがたくさんありました。私は、偶然と必然が重なったかたちで、恩師と呼べる先生たちと出会わせてもらうことがでました。今の自分の生き方や仕事等の活動のベースは、特に中学時代の先生たちとの出会いが強く影響していると思っています。私が出会った恩師たちのことを書いてみたいと思いますが、前座がとても長り、先生のことにたどり着くのにしばらくかかります。朝日新聞風に連載にしてみます。

近所のおっちゃんたちみたいに家にきて、人ん家の酒をただ呑みする、やかましい人たち

 小学校の時から担任や同和教育推進担当の先生は、とにかく家に来ていました。父とお酒を酌み交わし、仕事のことや昔話で盛り上がる。初めは先生が来て嬉しかったのですが、途中からは「やかましい」時もあって、ちょっとウザい時もありましたが、近所のよきおっちゃんたちのような感覚で肯定的に捉えていました。時に真剣な顔になり、意見を交わしていた姿は覚えていて、多分、部落問題のことなどについて話をしていたんだろうと思います。当然、タダで酒を呑みにくるのが目的ではなく、家族と部落問題について語ったり、被差別体験を聞いたり、子どもへの願いや思いを聞いたり、学校への要望や不満を聞いたり、生徒の暮らしぶりを掴みにきたり、家での過ごし方を把握したりと、ある種「綿密」な家庭訪問でした。子どもながらに「気にかけてくれている」「大切にされている」という実感があったので、先生を信頼していたし、家族からも「先生の言うことは聞け」みたいなことを言われてきました。

 呑み潰れる先生もいて、今の時代であれば、間違いなく処分を喰らいますが、朝起きると先生が別室で寝ていて、二日酔いの先生と一緒に登校した経験は一度や二度ではありませんでした。当然、二日酔いがマシになるまで「予習」みたいなことがあったようななかったような(笑)。すでに退職金をちゃっかりもらった方々ばかり。(ただ、今思うと、家庭訪問と題してお酒を呑んでいたのは「男」の先生ばかりでした。)こんな状況だったので、先生たちは、私の学校での様子と家庭での様子の違いに課題意識を持ち始めていったと言います。

家でのわたし、学校でのわたし

 小学校の通学団は、偶然にも2年生から班長をしなければならない状態だったこともあり、年下を引き連れ学校へ通い続けていました。家ではしっかりするようになった「お兄ちゃん」を演じ、外では通学団で最年長のしっかりしている低学年の班長さん、そして心が広く、ちっさいことではめげないし怒らない、体の大きな頼り甲斐のある2年生を演じてきました。

 とはいえ、必然的に近所の「お山の大将」的な存在となり、普段は年下の子とばかり遊んでいました。隣保館は第二の家のように思っていて、何をするわけでもないのに行って職員と話をしたり、ソファーに寝そべったりしていました。家庭や隣保館、放課後や休日では、割とイキイキしている様子を見せているのに、学校ではさまざまな面で遠慮している。家でも割とイキイキしつつも、父との関係に違和感を持ったようで、そうしたことに「踏み込んでくる」先生たちでした。この踏み込み方がとても巧妙で上手、何より人間関係があったので、土足で踏み込んでくるようなものではないし、無理矢理こじ開けてくるようなものでもありませんでした。

バイアスに次ぐバイアス

 保育園は2園で1小中であり、2歳から園に通っていたため、友だちと過ごす時間はとても長い。それだけに決めつけや思い込みなどのバイアスが常に存在し続ける状態でした。小学校の時、気に入らないことがあると、すぐに暴れる、授業中は落ち着かない、人にいらんことをする大嫌いな子がいました。私はその子が大嫌いで、業間の休みに遊びに誘うことはないし、休みの日も当然遊ぶことはない。遊びの話に入ろうとしてくると、話題を逸らしたりして、とにかく一緒に遊びだくない、遊べば気に入らないことがあると雰囲気を壊す、喧嘩が起きる、そんなバイアスでこの子を見て、排除していました。他にも、勉強やスポーツを抜群にこなす子に対しては「何事も完璧にこなす。できないことはない。任せておけばいい」というバイアス、発言力や周りへの影響力のある子たちには、顔色を伺い自己主張は控えた方が無難であるというバイアス等々、ひどいものでした。

ちょっと生い立ちを

 私は、結構「周りから自分はどう見えているのか」を気にするタイプでした。なので、学校ではその影響で遠慮していると先生にうつる姿が多々見られたのだと思います。幼少期から「男らしさ」や「長男はこうあるべき」を親からかなり強めに求められた環境にあり、親に気を使い、親の求める子どもを演じざるを得ない場面がありました。しんどいことをしんどい・傷ついた時に傷ついた・泣きたいから泣いた、こんな姿を見せると「しっかりしろ・負けてんな・長男だろ」と叱責され、時にビンタまで喰らってきたので、怖い・痛いを回避するために、求められる長男像を演じるといった具合です。これが弱音を吐けず、人前で強がり、嫌なことがあると平気なふりをするような、自分でない自分を作り上げていくことになっていきました。5歳で家族に、傷ついたり悩んだりしたことを相談するのをやめたのをはっきりと覚えています。「弱い」と思われると怒られるので、言わない方がマシだと思うようになっていきました。

 身長が高いことにもコンプレックスを抱いていました。弱音を吐けていた時、親の叱責の中に「その体は何のためにあるんや」「そんな体して泣くな」みたいなことを言われたり、「ウドの大木」と近所のおっちゃんたちにからかわれたり、園や小学校では、遠足や移動教室などがある度に先頭に並ばされたり。スポーツをしてもやりたいポジションは出来ず、他者から「身長高いからここ」というような扱いを受けてきたことで、誰にも言えない悩みとなっていきました。顔のほくろについても、いじられたり、からかわれたりすることがあり、それはとても嫌でしたが、コンプレックスの強さは身長の方がウェイトが重い状態でした。

 そうした自分に、部落問題との出会いが訪れます。

 続きは、Part2で。ご覧いただき、ありがとうございました。

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