ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」62 濱家さんの恩師に負けないわたしの恩師たち Part4

 前回に引き続き、恩師たちのことを書いていきたいと思います。前回のPart3はこちらです。

ほんまに謝らなあかんのは俺らの側や

 完全に何かが開かれました。先生が生徒を指名する前に、次々と生徒が立ち上がり、Aに謝罪する子、自分の暮らしを語る子、自分の悩みを語る子が出てきました。この時は、誰が何を語ったのか、ほとんど覚えていません。とにかく、みんなが反応してくれたことがただただ嬉しくて、「受け止めてくれた」とか、「ありがとう」とか、さまざまな感情が入り乱だっていました。

 しかし、たった一人の語りだけは、明確に覚えていました。保育園から大嫌いだったBです。Bはみんなが一通り話をしたのを見計らうように、挙手をしました。その時には、私も落ち着いていたこともあり、Bの挙手を見ていました。「こいつ、この場も茶化すつもりか」。戦闘体制に近い状態で、Bの言動に最大限の警戒をしていました。Bは、ずっと下を向いたままで、先生に当てられ立ったものの、何も語りません。バイアスというのは本当に怖いもので、こんな様子のBにも、私はまだイラついていました。

 しばらくして先生がBに「いけるか?」と声をかけると、Bは「みんなに謝りたい」と語り始めました。この言葉は、この子を知っている生徒にとっては衝撃的な言葉です。私も同じでした。「俺は小さい頃から、みんなに嫌な思いをさせることばかりしてきた。ケガをさせてしまうこともあった。でも、あんなこと、今までのこと、したくてしてきたんじゃない。小さい時から、いっつも一人で、寂しくて仕方なかった。家にはおかんしかおらんから、お金がない。みんなが持ってるゲームもおもちゃも俺の家にはない。だから、みんなの興味や関心を引くものはないし、みんなの会話にもついていかれへん。家では毎日、妹の面倒を見てきた。おかんは昼も夜も仕事してるから。休みの時もみんなとはほとんど遊べへん。俺がいらんことをするから休み時間遊んでもらえへんし、誰も家に来てくれへん。いらんことするしか、みんなの関心を引くことができやんかった。気持ちをわかってほしいけど、誰も俺に関心がなかった。わかってもらえへんと思って、どうでもよくなった。でも、こんなことを望んでたわけじゃない。俺は親父が憎い。たまに帰ってきたら、おかんが俺らのために稼いだ金を持っていきよる。歯向かっても勝てへん。それで、めっちゃイラついてた時に、暴れたりしてた。それから、あの時に・・・」。覚えているのは、このあたりまでです。この後も目に涙を浮かべながら語り続けるBを見て「もうええ」と大きな声を出しそうになりました。

 Bが謝らなければならないのは明白。でも、暴力のかたちは違えど、わたしたちがBに向け続けてきた視線や態度は、Bがやってきた暴力よりも、比較にならないほどの加害性を持っていたことを「これでもか」と突きつけられました。この時に、Bには返せませんでしたが、後日、これまでの酷い扱いをしてきたこと謝罪しました。Bはそんなことを求めていたのではなく、ただただ「一緒に遊んでほしかった」ということでした。

 Bは私のような弟たちを好き勝手に使うような歪んだ兄ではなく、本当に妹思いの頼り甲斐のある姿を休日のわずかな時間に遊びに行ったBの家で見せてくれました。学校で接しているだけでは絶対に見えないBの暮らしであり、本来の姿の一つです。この学年集会以降の学校の、先生たちの実践は、殺人や暴行、窃盗等の事件の犯人、マイノリティの存在を否定するような政治手法を選択する政治家、加差別行為者等等においても、歴史があり、暮らしがあり、問題が生じるに至る原因や背景、環境があるという視点を常に持ち続け、問題にどう向き合うかのベースになるものでした。憎かったり、腹が立ったり、自分と真逆の価値観を持つ人たちほど敬称をつけることを徹底していく選択も、このことがベースになったと思っています。人ではなく、社会の構造や環境や背景・原因などの本質を見定め、問題解決の視点を特定個人に求めない、求めていては問題は本質から解決されないと思っています。

かたちとなって現れる「部落問題は部落の子の隣にいる自分の問題」

 この学年集会から一週間経った木曜日、いつものように学校が終わり、地区学習会に向かおうとすると、家とは全く違う方向、隣保館に向かう他地区の生徒らの姿がありました。私が「どしたん?」と聞くと、「自分らの問題でもあるし、地区学が何をしてきているところかやっとわかったし、自分、仲間ほしいていうてたから地区学行くわ」。何人ものそうした声や姿に、また泣きそうになりました。ぞろぞろと地区生の数を超える他地区の生徒が地区学へ参加する意向を示してくれました。もちろん習い事などの用事がある子、自分はそこまではと思っている子たちは参加しない子もいました。

 この日の地区学は、やはりあの学年集会のことについて。それぞれが何を語ったのか、誰のどんな語りをどのように受け止めたのかなどを話し合っていきました。集会当日は泣いてばかりいたので聞けなかった友だちの語りは、Bほどでなくても、自分はどれだけバイアスを持って隣の子のことを見ていたか、接してきたかを思い知らされるものでした。

 親子間の関係がとても悪く、家にいたくない、できるだけ習い事などをして距離をとり続けていることに悩んでいる子、シングル家庭で育ち、周囲からの「かわいそう」などの視線をとても苦痛に感じ、「何故、自分にはみんなにいる家族がいないのか」と責めたことを後悔している子、身体的な特徴をからかわれてからコンプレックスになり、そのことに触れられる不安感を常に抱きながら学校へ日々通っていた子、勉強やスポーツをトップクラスでこなす子が自分が失敗した時の周りからの見られ方や評価の変化に不安を感じ常にプレッシャーを感じ続けてきた子、できるきょうだいと比べられ続け、何をやっても認めてくれないことに憤りを感じながら生活をしていた子等々、全く知らなかった友だちの事実が次々と出てきました。これらの話は、そのほとんどを先生たちが生徒から聞き出していた、引き出していたということも語られました。「先生がいたらから言えた」「先生が受け止めてくれたから言えた」、こうした声も少なくありませんでした。

 地区学習は、生徒主体で進められていきました。時には地区生だけで行う地区学習会もあり、それは先生がここという時に設定してくれました。次はどんな内容で語り合うか、誰がどんな口火を切るか等々です。みんなが話をしている内容について感じたこと、みんなの様子などについて気になることなどを話し合っていました。

部落の外から問われる「部落問題『で』考えるということ〜あんた私が何に悩んでんのか知ってんの?〜

 そんなある日、一人の地区生が不満を言葉にしました。「参加してる子の中に何にも喋らん子がいて、何を考えてるのかわからへん。なんか、あの子が来てるから自分もいこうみたいな、軽いノリで来てるんちゃうか。その子らに、そんな気持ちで来てるならこやんでええと言いたい」と言いはじめました。私は、止めるというよりは、よく似たことを思っていたので、「それ言おか」と返し、ある日の地区学の場で、その子がみんなに語りはじめました。「あのさ、全然喋らん子って何しに来てるん?あの子きてるから、自分もいこうと思ってる子、ここにいるんちゃう?そんなんやったらこやんでええと思う。部落問題は、俺らにとって一生の問題やから、軽い気持ちで来てほしないねん。そんな子らには俺らの気持ちはわからへんわ」。部屋の空気が一瞬にしてピリつきました。結構な賭けでした。このことによって、地区学の人数が減ってしまうのではないか、そんな懸念がありました。

 その時、私が抱いていた懸念を遥かに超える出来事が起きました。いわゆる女子生徒が語りはじめました。この子が次の内容を、とても強い口調で語る姿を見たのはこれが最初で最後です。

「ちょっと待って。意見言わへん子が何も考えてないわけないやん。それぞれがそれぞれの考えや思いや悩みとか持ってきてると思う。それをあんたみたいに意見言える子ばっかりじゃないのに。それと部落出身の子らの不安や心配は100%はわからへんとしても、分かろうとするために勉強したりしゃべってるんちゃうん?部落問題じゃなくても、それぞれの悩みや困りごとを自分のこととして受け止めて考えて解決していこうとするのがこの場じゃないの?それをなんなん。そしたら聞くけど、あんた私が何に悩んでんのか、何に不安持ってんのか知ってんの?わかってんの?」。

 私が問われた内容でした。差別を受けるのは、わかりやすい被差別部落にルーツがあること、「障害」者であること、外国にルーツがあること、セクシュアルマイノリティであることなど国や自治体などで「人権課題」とされるものだけをフォーカスするのではなく、家庭のこと、親とのこと、きょうだいとのこと、友だちとのこと、身体に関すること、病気のこと、考え方や価値観のズレみたいなこと等々に関しても、マジョリティとマイノリティが存在していたり、差別的な扱いを受けることに不安を感じていたり、困りごとや悩み事を抱えていたりするということについても、大切にされていくことも同和教育だと当時の先生たちは教えてくれました。

部落問題「で」考える生き方、つながり

 地区学習は部落の子のための学習ではありません。部落問題が一番重い問題でもありません。普遍性があり、皆がそれぞれ抱えさせられているものに当事者意識を持って関わっていく、人と人とのつながりは「互いの暮らしを知り合い、暮らしを通したつながりがあってこそのもの」、「部落問題を考える」のではなく「部落問題で考える」大切さと、その実践が豊かなつながり、ありのままの自分でいられ、互いを高め合う集団づくりにつながることを先生たちは体現してくれました。

 部活はサッカーをしていましたが、監督にもたくさんのことを問われました。「何故、あの子に指示しないのか。あーしてほしい、こうしてほしいと言わないのか」。見抜かれていました。私をサッカーに誘ってくれたいろんな選抜に選ばれる子には、普段は戯れ合うことはできても、肝心な場面で肝心なことを言えていない。何故、なのか、どうすべきなのか、どうするのか、生徒たちで考え答えを出すように何度も求められました。腹を割った話を何度も重ねることができたことで、同級生が6人しかいない全校生徒数が少ない学校だけのチームは三重県でベスト8に入りました。

 この先生は今、市議会議員として活躍してくれています。市街地以外の地域がどんどん後退していくような市の施策のあり方に歯止めをかけ、変革していくために、チャレンジされた中学時代から、熱心さ、緻密さ、賢さなどを兼ね備えた尊敬する先生です。新人でトップ当選を果たしたところに、先生が丁寧に積み上げてこられたものを感じとりました。

 この続きはPart5へ。ご覧いただき、ありがとうございました。

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