ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」63 濱家さんの恩師に負けないわたしの恩師たち Part5 final

 前回に引き続き、恩師たちのことを書いていきたいと思います。前回のPart4はこちらです。

関係を繋いだ次は、関係を壊しにかかり確かめる

 中学3年生になり、受験に向けて本格的に取り組む時期に入った時、先生たちは、とんでもないことを言いはじめました。

「高校に向けて受験に臨む生徒はたくさんいる。そんな中で、限られた枠を超える志望者が各高校を目指すことになる。自分が行きたい高校のあるクラスの定員が40人だとして、希望者が41人で1人が間違いなく落ちる。その高校を希望する子が同じ学校にいた場合、どちらも合格するとは限らへん。どっちかが落ちることもあり得る。そんな時、君らは自分の希望や未来を捨てて友だちに譲るのか、それとも蹴落としてまで希望する学校への合格をめざすのか、どうするんや」。

 これまで積み上げてきた関係をあらためて問うための投げかけでした。あえて壊すようなものを放り込み、つながりを確かめる、確固たるものにするなどのねらいがあったようです。

 当時は、そんなことを知る由もなかったので、とてつもない課題を投げかけられた側からすれば、「えーっ」となって、しばし沈黙の時間が続きます。「自分らで話し合ってみ?」、そういうと先生は職員室に戻っていきました。記憶にあるのは「受験は『団体戦』。個人で立ち向かうのではなく、皆で支え合い希望を目指すこと」「お互い、自分のベストを出し合う中で出た結果についてはお互いを尊重すること」等々、それぞれが自分のために、友だちのためにできることを考え、行動していくこと、支え合い、認め合い、お互いを高め合っていくみたいなことが結論でした。

 Bは、就職を選択しました。高校への進学も考えていたようですが、家族を経済的な面で支えるための進路を自ら選択しました。その気になれば、学歴は変えられる、これがBの出した結論でした。同級生で唯一の就職でした。

 今となっては、やはり「選ばざるを得なかった」のだと思います。日本は未だ「どんな家庭、どんな親のもとで生まれ育ったかで将来が決まってしまう」国です。これがますます悪化してきていて、今後、もしかすると、これまで以上に「海外旅行に行けるのは一部の特権層」になっていくだろうと思います。

後に知った恩師たちのこと

 この仕事についてからわかったこと、知ったことがたくさんありました。先生たちは昨日、生徒を帰した後、再び学校に戻り、明日の学年集会に向けた打ち合わせをしていました。単なる進め方ではなく、この集会の望む先生たちの「覚悟」を確認し合うためだったようです。教師が腹をくくらずに、子どもに何を求めるのか、さまざまな展開も想定していったようです。「作文を読まなければよかった」という最悪の状態は絶対に避けたい、でも教師がしゃしゃり出てしまうことは、とてつもない値打ちのあるものの価値を落としてしまうものになってしまうのではないか、相当の覚悟とともに、地区の子はもとより、地区外の子たちも「信じよう」と決意したようです。

 先生たちもまた、眠れない一夜を過ごしていました。学校長も遅くまで学校に残ってくれていたことも知りました。朝の会に遅れたのも、最後の打ち合わせを学校長や教頭も入り、打ち合わせをしていたとのことでした。

 また、先生たちはAとAの家族、BとBの家族をはじめ、私の家族や他の先生たちが気になる生徒や家族と、とても丁寧に向き合い、語り合い、何に悩み、何に困り、何を求めているのかを先生たちの想像という思い込みや憶測ではなく、実際に生徒や保護者らから聞くことによる「事実」を蓄え、積み上げ続けていることもわかってきました。

管理職もすごかった

 管理職も素晴らしい人でした。私が中学卒業とともに現役を引退されましたが、今も生涯現役として社会同和教育運動を展開してくれています。

 私たちの学年には、たった一人、特別支援学級に在籍するCがいました。国語と算数が取り出しで別教室で授業を受けていました。一見するとわからない特性を持っている子です。受験の時、恩師はCとCの保護者が希望する高校への入学はとても難しいと思っていて、それは教科学力の厳しさからくるものでした。Cの保護者は特別支援学校よりも、小中でCが私たちとともにお互いが支え合いながら9年を過ごしてきたことで、高校でも地元から一番近いところなら高校生活を送ることができると考えていて、しかし学力面の厳しさは認識していたので、希望通りには行かないだろうとも思っていたようでした。

 恩師たちは、ある日、決断します。Cの保護者に希望する高校は難しいので、支援学校への進学を進めにいくことを。夕方、Cの家に家庭訪問し、父母を前に、「志望校について地元の学校を希望してくれてまして何とかしたいという気持ちはあるんですが、今のCの学力ではとても厳しいと思います。高校には小中学校のように特別支援学級もないので、これまでのような体制をつくるのも大変難しい。なので、Cにとっては特別支援学校に進学することがベストだと思うんです。Cも交えて、その方向で話をしてもらえますか」。ご両親は大きく肩を落とし、Cの母は涙していたようです。

 恩師は、学校へ戻り、校長先生に、そのことを報告しました。校長は、中3の学年団でこのような話になっていたことを初めて知ったようです。小学校の時からこの校長先生を知っていて、ヤンチャな先輩たちにも、ただの一度も怒った姿を見たことはありません。その校長先生が目を大きく見開き、恩師にこう話したと言います。

「僕らの仕事は夢や希望を持たせ、その夢や希望を現実のものとして実現させることやと思うんやろけど違うんやろか。そんな簡単に、子どもや親の夢や希望を奪って、断ち切ってええんやろか。僕らは何のための教師してるんやろな。ほんまにできることはもうないんやろか」。

 恩師は後に、この話を聞かせてくれた時、「あの時の校長は本当に怖かった」と語りました。「ハッとした」みたいな言葉では言い表せないほど自分を責め、自分を悔いたと言いました。すぐにCの家に行き、「前言を撤回させてください。Cを必ず志望校に入学させます。」、大泣きしながら家族に謝罪するとともに、全力で答え結果を出すと伝えたと聞きました。Cは志望校に入学、3年間、学校を辞めることなく高校生活を送りました。その後は、地元の工場に勤務しています。私たち生徒が知らないところで、こんなやりとりがたくさんあったのだろうと思います。

まとめとして

 この連載、これが「同和教育」です。同和教育を「部落問題についての学習」程度に捉えてしまうような人たちが多く社会に排出されてしまったのは、とても残念です。とても狭義で生半可な学習内容を受けたことで、部落問題や人権問題学習に否定的な人たちも少なくありません。あくまで、当時の先生たちによる教育内容であって、みなさんが受けてきたものが=同和教育ではない側面があることを知ってほしいのですが、それをどうすれば変革していけるのか、とっても悩みます。同和教育とは、全ての子どもたちに向けて実践される未来や将来を豊かな者へと保障することを目指し実現するための教育活動です。

 具体的な目標を持ち、ねらいを持ち、具体的な仕掛けを講じ、願いをもち、生徒と保護者を信じ、最も勉強がわからない・最も学校が楽しいと思えない・最も居場所がない・最も人とのつながりの浅い生徒を軸に、この子がどうすれば勉強を理解できるのか、どうすれば勉強しようと思えるのか、どうすればクラスが楽しい、学校がおもしろと思えるようになるのか、その実践が他の生徒たちの生きづらさの解消や豊かなつながり、勉強の苦手な子・スポーツの苦手な子に何をどうすればいいのかを教えることが自分の学力や能力を高めることにつながること、また将来展望などにつながることを今を生きる人たちに知ってほしいし、経験してほしいと思います。

 連載はこれで終了です。ご覧いただき、ありがとうございました。

3件のコメント

  1. いつも勉強させていただいています。ありがとうございます。
    「同和教育とは、全ての子どもたちに向けて実践される未来や将来を豊かな者へと保障することを目指し実現するための教育活動です。」が素敵でしたので今後使わせてもらおうかなと思っています。
    草津市では、学校同和教育と社会同和教育、いわゆる子どもたちと大人たちという分け方がされています。
    この場合には前述の松村くんの言葉が我々のところでは、学校同和教育ということになるのかなって考えてしまって。
    もちろん同和教育を「学校」と「社会」に二分することが正しいのかと言う疑問もありますが、そんなことを、ふと考えてしまったので、ご意見いただければありがたいです。

    1. いつもありがとうございます。井上さんのおっしゃられる通りです。学校教育と社会教育がありますので、同和教育の営みも整理されてきたものであり、重なる点と学校と社会教育をわけて取組を展開する点があると考えています。完全な二分というより、重なる点もあるなかで進められていく大切な営みというのが私の見解です。よろしくお願いいたします。

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