このブログで以前、「寝た子を起こすな」について取り上げましたが、日常で起きる家族や友人などから「寝た子を起こすな論」が登場した時に使えるようなものを書いた方がいいと思ったので、特権などにも触れながら再度、書いてみます。
まずは「寝た子を起こすな論」とはどういうものかについて、子どもさんを小中学校に通わせている保護者さんたちの実際の声を紹介します。
「部落」なんて学校で習うまで知らなかったし、どうでも良かったし、差別する意識なんて毛頭ない。 何でもそうなんだけど、あまり被害者被害者言い続けてると、言われる方も良い気はしない。 こういう映画を出すことで差別意識が消え去らない。 いい意味でお互い「忘れる」事が大事なんだと思う。
30代だけど部落差別は馴染みは全くなく、知らないし話題にもならないから部落だからここの地域は嫌だなという感情もなかったもちろん自分の周りの人も同じだと思う。だけど啓蒙活動や学校の教育で部落なんてあるんだと知ってはじめてネットとかでこの地域は部落だったんだみたいなことを知って皮肉なことに知ることで差別的な意識が自分に生まれた気がする。難しい問題だけど啓蒙活動が差別を生み出すという側面もあるんだなと最近思うこともある。
このような意見は割とあちこちに存在しています。
教育や啓発などを実施する法的根拠があります
自治体や学校などで人権学習を実施する上で「基準」があることが知られていません。好きか嫌いか、やりたいかやりたくないかというようなものではなく、法律で定められた「基準」では、「やらなければならない」「取り組むことが当たり前」という「縛り」そして「根拠」があります。
まず、日本は国際連合が発行している人権関係の条約に批准してきています。国際人権規約、人種差別撤廃条約、女子差別撤廃条約、障害者権利条約、子どもの権利条約などです。こうした条約に批准した国は、条約に基づいた取組を進めていくことになります。国際条約は日本の法体系の場合、最高法規の憲法の次、国内で制定された法律よりも効力が上位になります。こうした「基準」は交通ルールを守ることと同じことですが、日本ではかなり軽視される傾向にあります。法治国家である以上、私たちは憲法や条約、法律などの「基準」にそって取り組むことが原則です。これら条約では、教育や啓発のことが規定されています。
「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」
第5条では、地方公共団体の責務として、「地方公共団体は、基本理念にのっとり、国との連携を図りつつ、その地域の実情を踏まえ、人権教育及び人権啓発に関する施策を策定し、及び実施する責務を有する。」としています。
「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」
第3条では「国及び地方公共団体は、この法律の趣旨にのっとり、障害を理由とする差別の解消の推進に関して必要な施策を策定し、及びこれを実施しなければならない。」、第15条では、「国及び地方公共団体は、障害を理由とする差別の解消について国民の関心と理解を深めるとともに、特に、障害を理由とする差別の解消を妨げている諸要因の解消を図るため、必要な啓発活動を行うものとする。」としています。
「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」
第6条の「教育の充実等」として、「国は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動を解消するための教育活動を実施するとともに、そのために必要な取組を行うものとする。」「地方公共団体は、国との適切な役割分担を踏まえて、当該地域の実情に応じ、本邦外出身者に対する不当な差別的言動を解消するための教育活動を実施するとともに、そのために必要な取組を行うよう努めるものとする。」、第7条の「啓発活動等」では、「国は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消の必要性について、国民に周知し、その理解を深めることを目的とする広報その他の啓発活動を実施するとともに、そのために必要な取組を行うものとする。」「地方公共団体は、国との適切な役割分担を踏まえて、当該地域の実情に応じ、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消の必要性について、住民に周知し、その理解を深めることを目的とする広報その他の啓発活動を実施するとともに、そのために必要な取組を行うよう努めるものとする。」としています。
「部落差別の解消の推進に関する法律」
第5条で教育及び啓発として、「国は、部落差別を解消するため、必要な教育及び啓発を行うものとする。」「地方公共団体は、国との適切な役割分担を踏まえて、その地域の実情に応じ、部落差別を解消するため、必要な教育及び啓発を行うよう努めるものとする。」としています。
他にも、自治体の条例、計画、方針などでも教育や啓発についての実施根拠が明文化されています。
憲法、条約、法律、条例には、「人権教育に取り組まなくていい」「寝た子を起こすようなことを国や自治体、学校などでは取り組んでいけない」など。、一切、登場しません。むしろ、そうしたことを批判するように「取り組む責務がある」ということが明確に謳われています。
割とよく聞くのは、人権運動が盛んな地域や学校に移住したり子どもを通わせることになった際、保護者自身の経験から「私が通っていた学校、前にいた学校では、こんな学習はほとんどしていなかった。ここは熱心にとりんでいますね」というものがあります。通っていた学校、前にいた学校が条約や法律などがあるのに、取り組んでいないということ自体、条約や法令に反しているということであり、取り組んでいることが本来、当たり前のことだということです。
差別とは何か
マジョリティ(社会的多数派・権力を持つ側)にとって「差別」とは、特定のマイノリティ(社会的少数派)性を有する人に対する差別発言や差別落書き、インターネット上の差別投稿、就職差別や結婚差別、土地差別などについて、悪意をもった個人がおよぼす問題と捉えていることが多くあります。
このような捉え方の中からは、差別は「知識」から芽生えてしまうものと誘導されてしまうことが割とあります。そして、知らない差別のことを、人は差別することはないとも捉えがちなので、「取り上げなければ意識することもなく、そんな知らない人たちが増えることで差別は自然消滅していく」とたどり着いてしまうパターンが多いように思います。
実は、この考え方は正しくない、間違いであると思っています。個人の感想ではないことを解説していきます。
マイノリティにとっての「差別」とは、日常生活のさまざまな場面で被害を受けている問題です。制度であったり、慣習であったり、構造に関わる問題です。だから、「子どもが結婚したいという相手がどんなマイノリティ性を持っていも反対(差別)しない」とか、「相手がどんな人でも気にしないし、関係ない」イコール自分は差別しない・していないとなりがちですが、それは非常に狭い領域での話であって、マイノリティが被っている日常的な差別は、そういうものだけではないということです。生活のふとした場面で、疎外感を抱かされるような言動を浴びる、自分が有する属性が否定されたり、侮辱されているような思いを抱かされるような問題は、たいていマジョリティは差別していることに気づいていないし、差別が起きていることに気づいていないし、それが差別だと認識できていない場合があります。
差別が「寝た子を起こすな」で解消されるはずがない
差別は、何故「寝た子を起こすな」では解消されないのかを意識しながら、事例を挙げて書いてみます。ただし、必ずしもマイノリティすべてが同じ状況ではないことを押さえておきたいと思います。
車椅子を普段から使用している「障害」者は、生活のさまざまな場面で差別を経験させられています。それは障害のない人たちによってつくられた社会であり、かつ障害者のような少数の側の人たちがあたかもいないような前提でつくられた制度・慣習・構造にあるからです。
「障害」者問題で考えてみると
偶然、見えるし聞こえるような状態の身体的特徴を身につけている人は、学校の授業や講演会、研修会などの機会に手話通訳や要約筆記のできる人がいなくても授業や話が理解できるのに、偶然、視覚や聴覚に障害がある人は、情報保障がないと内容が理解できない状態に置かれるのは、日常生活のあらゆる場で起きているわけです。
銀行のATMはどんな人たちが当たり前のように利用できていますが、どんな人は利用しにくい、利用できないのか、トイレの洗面台の高さは誰が使いやすいようにつくられていて、どんな人たちが利用しにくい・利用できないのか、無人駅や昭和時代などにつくられた駅は健常者である自分は反対のホームへ行く時に階段を上がり、線路の上を渡って、階段を下るという一人で到達できるというように一人の力で移動できるわけです。これが車椅子を利用しているといった「障害」がある人になると、事前に駅へ連絡を入れなければならないし、補助してもらわないと反対のホームにいけない、補助してもらった相手にはお礼を言わなければならないといった状態に置かれ続けているわけです。
健常者などのマジョリティには努力しなくても自動的に与えられている恩恵や優位なこと、もっというと「生まれ持って努力しなくても、全てにこの社会が合理的な配慮や特別な支援を用意してくれている」のに、マイノリティになると、そのマジョリティに自動的に与えられている恩恵が与えられていない、こうした状態を「差別」と言います。
女性問題で考えてみると
他にも、この社会は「女性」の方が人数が多いのに、物事を最終的に決定するような役職には、「男性」が圧倒的に就任している、これはそのような社会構造がずーっと動き・周り続けているからです。自分の身を守るための手段に何かをしているかを問うと、ある大学の特定の科目を受けている学生に限定されたもので知ったのですが、やはり「女子学生」に性被害に遭わないような記述が多くみられました。自宅まで帰る夜道は、たとえ遠くなっても、街灯の多い道、車通りの多い道を選ぶ、誰かと一緒に夜道を歩く、後ろに人が歩いていれば早歩きで帰る、電車内では他の女性の近くに立つようにしているなどが書かれていたと紹介されました。また、男性は電車を利用する際などに性被害に不安を抱きながら乗ることはないが、女性の中には性被害に不安を感じながら電車に乗っているような人たちもいるわけです。
平均して男性は自分が働きたいように働いている・働くことができるので、残業や出張はパートナーに事後報告、パートナーは夫が「勝手に」入れてくるスケジュールに自分のスケジュールを調整しないと予定することができない、夫のように自分の好きなようにスケジュールを組んだ場合、それが偶然、夫の勝手なスケジュールと重なっていれば、子どもは保育園や学童に置き去りになり、お風呂も入れず、ご飯も食べれない、なので女性は働き方を変えざるを得ず、それは社会で評価される機会が減るということであり、男性と同等の評価を受けようと思えば、男性の何倍も努力をさせられるわけで、しかしその時間が家事や育児でとれない、男性は評価され続け、女性は評価されないポジションに構造的に置かれる等が差別の結果であるわけです。
これが外国人問題とされているものや、部落問題とされているものでも、同じような構造が働き続けているわけです。「寝た子を起こさない方が良い」というご意見は、こうした寝ることのない、ぐるぐると回り続ける差別社会構造に、どんな効果をもたらすのでしょうか。放置しておけば無くなると本気でお考えでしょうか。法令が定められ、具体的に課題が解決するためのシステム、政策が展開されてきて、今の状態があるわけです。女性の参政権は、寝た子を起こすなで解決してきた問題ですか。障害者の雇用を促進するための取り組みや労働環境を変える取り組みは法律と具体化する施策によって改善してきている問題だと思うのですが、これも寝た子を起こすなで自動的に解消されてきた問題でしょうか。部落問題は、制度の問題であったのは江戸時代、今は構造の問題として機能し続けています。
だから障害者問題や女性問題と言われるような、制度や慣習の問題だというように分かりやすく説明できるものではないので、とても丁寧で詳細な能動的学びが必要になります。そうしないと本質に辿り着けないからです。「寝た子を起こすな」をあたかも正しいと主張することが、マイノリティに対する抑圧として機能するという新たな差別を生み出していることに早く気づいてほしいと思います。
部落問題は社会構造の問題。正しい知識がないと途端に「寝た子を起こすな」を支持してしまう
部落問題で言えば、まぐれで生まれ育った故郷が被差別部落でないだけで、自分のルーツで差別的な扱いを受けることがないという「恩恵」をすでに兼ね備えることができているわけです。だから「どこにお住まいですか」みたいな問いかけに、ふるさとの名称を差別を受けるかもといった不安を抱かなくても答えられるという部落出身ではないという属性を有するマジョリティにとって「当たり前」のことが、偶然、部落にルーツがあるというだけで、「どこにお住まいですか」という問いかけに、微妙な反応をされたり、会話が止まったり、よそよそしくなったり、それ以降話をしてもらえなくなるという被害を受けることがあったり、受けることへの不安が芽生えてくるわけです。それは「差別があるから」です。そんな、差別を受けない・カミングアウトをしなくていい、地名を答えても差別されない補償がすでにあるなどの優位性を優位性だと認識できた時に、「寝た子を起こすな」が単なる意見ではなく、むしろ差別につながっていくことを認識できることになるのではないかと思います。
差別は「する」とか「しない」というだけの問題ではない
だから、差別は「する」「しない」だけの問題ではなく、こうしたことを差別を捉えられていない人たち、こうした不平等に対して、何もアクションを起こさない人たちによって「支えられている」問題であるということを捉えていけるようになる必要があります。積極的に差別していなくても、消極的に差別を支えている、結果として差別を容認し、差別に加担している人たちが社会の中で圧倒的多数を占めていると思います。このような「差別」について「寝た子を起こすようなことをしない方がよい」というのは、どう考えても論点がずれてしまうということがお分かりいただけるのではないでしょうか。決して個人が責められる問題ではなく、この社会がそうしたことを人々に教えていない、学ぶ機会を提供できていない、ここが問題の本質であり、ここから変えていくことがとても大切になると思っています。私たちは、こうした差別を「残す側」にいるのか、それとも「なくす側」にいるのかを問われ続けているということです。
日本は「寝た子を起こすな」を何度も経験済み。そして差別が維持された
知識的な側面で「寝た子を起こすな」を批判してみます。2022年は全国水平社創立から100年を迎えた年になりますが、太政官布告が廃止された「いわゆる解放令」発布から50年もの間、日本では政府や自治体、学校、企業等々に置いて部落差別を解消するための取り組みを展開してきませんでした。50年間、「寝た子を起こすな」を実施してきた史実があります。しかし、部落差別はなくなるどころか、どんどん差別行為のハードルが下がり、差別は過激になり、深刻な人生被害をもたらすほど酷くなっていきました。こうしたことから、ここまでやられて黙っていられないと、被差別当事者が立ち上がったのが全国水平社の創立でした。時期や動機は違えど、他のマイノリティも声を上げたり、団体を発足し運動を展開してきたわけです。
寝た子を起こすなで解決された差別問題はない
これまで「寝た子を起こすな」で解消された差別はないと言っても過言ではありません。コロナ禍で感染者や家族、医療従事者などが酷い扱いを受けてきた、いわゆる「コロナ差別」は、まさに「寝た子を起こすな」の中で表出してきた問題です。差別的に偏見を有して「寝ていた」だけであって、解消されたわけではない差別は、日常の中で潜んでいた、それが「感染させられるかもしれない」などの「利害」を多く感じ取った人々が差別や人権侵害を起こすことになったということです。
また、「そもそも差別は本当に無くなるのか」「解決された差別はあるのか」という意見があります。この場合、たいていが差別の解消に取り組んでいないことがほとんどです。あなたが差別の解決に向けて何もしていないから、あなたの周りで差別がなくならない。たった一人が動いても何も変わらないではなく、たった一人から始めていくことが積み上がり、マジョリティすべてが差別の解消に向かおうと努力を積み重ねていけばなくなるのに、マジョリティがマジョリティを教育することなく、マイノリティに差別問題解消の責任を押し付け、ましてや差別構造に加担しているので、なくなるはずもありません。自分のうちから差別をなくす、自分の身近なところから差別をなくす個々のできることを実践するという取り組みがとても大切だと思います。
最後に、「特権100ドルレース」も紹介しておきます。差別が構造の問題であること、誰にどんな特権が努力せずとも自動的に与えられているのか、やはり後方に置かれスタート位置が不利になるのは平均してマイノリティが多いという構造等々、たくさんの学びのある動画です。
ご覧いただき、ありがとうございました。
時々ですが、ブログを拝見して、自分自身を振り返っています。時にしんどい営みですが、だからこそ必要なことなのだと思います。