ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」11 教師の一丁目一番地は「子どもや親の責任にしない」こと

 差別とは、制度や慣習、構造という日常的な問題であるということを紹介してきました。今回は具体例を挙げ、人権・同和教育や人権・解放保育とは何をどうする教育なのかについて、ほんの一端を書いてみたいと思います

 小学生に学校が日々の生活を日記として宿題に出しているところがあります。子どもたちが選んだ日記が「①おばあちゃんちに行ってきた」と題されたもので、祖母の家で誰とどんな会話をしたのか、何をしたのかを書いてきたりします。その子どもの日記に対して、先生がコメントをする取組もあって、例えば「久しぶりに会えてよかったね。」などがよくあるパターンではないかと思います。

 他にも、何気ない日常の中で、友だちの家に子どもが遊びに行くときは、「②きちんと挨拶するように」と言われることを綴ってあったので、先生は「あいさつはコミュニケーションの基本です。」と返す、自分の祖母の日常について「③レシピ本なしで料理をつくるおばあちゃん」みたいなことが綴ってあると、「すごい!先生にも、教えてほしいな。」とコメントされていたり。

 しかし、このような日記の内容、子どもたちの日常を先生が何をどこまで掴んでいるかで、そのコメントが適切かという議論が出てきます。何気ない日常の中に差別の現実が現れていることがあるわけです。

 「①おばあちゃんちに行ってきた」と綴った子どもの暮らし、生活背景には、結婚差別により、部落にルーツのない母方の親子関係、親戚関係が分断され、それが今も修復されていない状況にあります。部落にルーツある夫と一緒に一度も実家に帰ったことがありません。母と子がたまに実家に帰ることになると、親や親戚の反対を押し切って結婚をしたため、「礼儀正しい孫として育っている」と見せないといけないと思わされています。孫が親戚の子が礼儀がなっていない、マナーがなっていないとなると途端に「部落で育てられているから」「夫が部落だから」と即座に思われかねない。なので、実家に帰る時は「礼儀正しくしなさい」「きちんと挨拶しなさい」と毎回、母に戒められている環境で育つ子どもです。

 「②きちんとあいさつしない」と綴ってきた子の保護者は、幼少期に被差別部落地区外に遊びに行く時に、必ず祖母や母から声をかけられ続けてきた言葉です。過去に、友だちの家に遊びに行った際、友だちの家族から「◯◯(被差別部落)の子ならもう帰って」と言われた経験、友人宅で物がなくなったり壊れたりした際に真っ先に「きっと、あそこ(被差別部落)の子だ」などと疑いをかけられたりしてきた経験から、子どもにはそんな思いをさせたくないという差別被害から守るための願いや思いから、今も子どもに親が戒めている言葉です。

 「③レシピ本なしで料理をつくるおばあちゃん」と綴った子どもの祖母は、厳しい差別によって文字の読み書きを奪われた非識字者です。なので、レシピ本なしで料理をつくり生活を支えざるを得なかったということです。近隣住民との関係もよいとは言えず、家に誰かが遊びにきたり、お酒を呑みにくるといった関係などがない家庭です。先生が家にきてくれることの楽しみ、家族以外の人が料理をおいしいとほめてくれたり、認めてくれたりすることが嬉しいと思われていました。文字の読み書きができないということを例え地域の人であっても知られたくない、恥ずかしいことだと思わされています。今も粘り強く隣保館の職員が関係を丁寧に紡ぐ取り組みを進めています。

 このような差別の現実は、保護者との豊かな関係性を築いていかないと見えてこないし、家庭訪問も重ねないと見えてきません。子育てスキルや育児スタイル、生活環境、暮らしの一つひとつに、子どもたちの将来を左右する差別の現実が影響している、そのことを明らかにし、克服する取り組みなくして差別の解消はなし得ないと思っています。

 先生たちや学校の中には、将来的に部落差別に出会うかもしれないから部落問題学習を展開するという将来的対策として学習に取り組んでいるところがありますが、くらし・子育て等の中で、すでに部落差別に出会っている、出会わされているということです。

 それを社会的に明らかにし、克服すること、世代間の連鎖を断ち切ること、学力・進路保障を実現していく、この社会を主体的に生きる力を育むことを人権・同和教育や人権・解放保育の実践だと理解しています。

 クラスで最も落ち着かない、勉強がわからない、将来性に不安を感じる子どもは、どんな子で、先生はその子の何を知っていますか、語れますか?先生の思い込みや憶測、分析ではなく、「事実を蓄えることから始める」が基礎基本です。

 次に、一番、学校が楽しくない、勉強がわからない子に視点をあて、この子が通いたいと思える園や学校をめざし、具体的に「何か」に取り組み、実現することが園や学校に求められていることです。毎日学校を楽しいと思えている子に「学校楽しい?」と聞いていくのではなく、最も「楽しくない」と思っている子が楽しいと思えるクラスを作ること、いつも100点をとる子どもに「勉強わかる?」と聞いていくのではなく、最も点数がとれない子がとれるようにするためには授業で、授業以外で何をどうすれば、この子の点数は上がるのかを考え、実践することが求められます。

 そうすると、園や学校で視点児童にしている子や親の課題は何かという設定のあり方は、本当に捉えるべき課題との整合性がとれているかを常に確認していくことが重要になってきます。

 保育・教育・自治体や隣保館の実践が子ども一人の一度きりの人生に多大な影響を「必ず」与えることを自覚した取組、関わりが求められます。

 今回の内容に関連する本がありますので紹介します。


 ご覧いただき、ありがとうございました。

3件のコメント

  1. 自分も教壇に立つ身です。学校だけじゃわからないことがあるから知りたくてお家に行かせてもらう。でもそこで話を聞いても見ようとしなければ見えてこないものが沢山あります。教職もわずかになりましたが、引き続きやっていこうと思います。

    1. コメントありがとうございます。子どものことを知りたいという気持ちと、知るために家庭に行く、保護者と話をするということが自然と出てきてほしいんです。私は学校や先生たちのバックアップになればと取り組んでいます。

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