ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」74 「被差別部落はどこにあるの?」と聞かれたらどう答える?

 教科書には、部落差別解消推進法や、全国水平社の創立、いわゆる「解放令」などが書かれており、学校で生徒に向けて部落問題を取り上げることは、ほぼ「必須」となっています。ただし、触れない学校や担任さんはいないとは限らず、また部落問題について授業で取り上げる質や量の差は明確に存在しています。部落問題学習の質や量の地域間格差は「人権教育啓発推進法」施行後もほとんどうまっていません。

 授業で「この社会には、人の生まれた場所や育った場所でその地域の居住者を差別する『部落差別』が存在しています」とした上で、

被差別部落と歴史的につくられた場所や居住者に対して「あそこはややこしいところ」「あそこは怖いところ」という問題

その地域に居住している人が何か問題を起こすと「あそこの地域の人だから」というように一括りにされるようなことが起きる問題

「どこに住んでいるのか聞かれ、自分のふるさとや出身地を答えると、治安の悪いところなどと言われたり、相手がよそよそしくなったり、会話が止まったり、驚いた表情をしたり、それ以降、話しかけてくれなくなるといった差別を受けている問題」

「差別を受けたくないという思いから出身地やルーツを隠したり、ごまかりしたりして生活することを余儀なくされている人たちがいる問題」

「交際や結婚において、被差別部落出身であることを理由に反対されるなどの差別が起きている」

「インターネット上に被差別部落や出身者に対する差別投稿が起きている」

などが説明されているようです。

 まず、私は部落差別は誰に対して向けられているのか、向けられる可能性があるのかを正確に伝える・教える必要があると思っています。差別を受ける可能性があるのは、被差別部落に居住している人に限らないため、現在、被差別部落に居住していなくても保護者の出生地や本籍地などを理由に差別を受けた人もいることから、「被差別部落にルーツがある人、被差別部落出身と見なされた人が受ける・可能性のある差別」ということが必要だと思っています。

 「被差別部落とされた地域があること」「被差別部落や出身者に対する差別が起きていること」などを授業で聞いた生徒の中から、「先生、その被差別部落というところはどこにあるんですか?」という質問が出てくることがあり、先生たちの中から「生徒から、こんな質問を受けた場合、どう答えればよいか迷ったり悩んだりしている」というお話は、ほぼ毎年聞いています。

 この質問に用いられた先生としての返答は「何故、そのことを知りたいのか」という逆質問のようです。先生の表情や声色などから何かを察した生徒はそれ以上、聞かなくなるみたいなことがちょこちょこなのか、割となのかはわかりませんが、個人的な感覚としては多いように思います。この回答が不正解だとは思いませんが、物足りなさと、せっかくの生徒からの質問なだけに、これを絶好の学びを深める機会にしてほしいです。私ならこう答える、こう取り扱うみたいなことを書いてみたいと思います。ちなみに、私は被差別部落はどこにあるのかを知ろうとしてはいけないとは思っていません。何のための知りたいのかが大切だと思っています。

カミングアウトの原則

 新型コロナウイルス感染症が拡大してきた中で、感染者やその家族が差別被害、人権侵害を受ける問題が発生しました。感染者や家族は、「感染したこと、家族から感染者が出たことをできる限り知られたくない、知られないようにしておかなければ差別を受けることになる」という不安や心配を抱かされました。ところが、非感染者の中からは、「感染したのはどこの誰か」を詮索し始め、家族や同僚、知り合いなどに聞いたり、「あそこの人らしい」という噂を広めたりすることになっていきました。「知られたくない感染者や家族」の不安な思いとは裏腹に、「感染するリスクをゼロにしたいため、興味関心を理由に、どこの誰が感染したのかを知っておきたい非感染者」によって、SNSやニュースコメント、電子掲示板、ちまたの会話などで詮索される感染者や家族は、どれほどの不安を抱かされたでしょうか。医療従事者や家族も差別被害に遭っていたため、医療従事者本人や家族が医療従事者であることを知られないように、子どもに戒めていた人さえ出てきました。

 被差別部落にルーツがあることを知られた際に、露骨な差別発言を受けたり、マイクロアグレッションを受けたりすることに不安を抱かされている人たちがいる中で、差別を受けるリスクを低減するためにも、伝えたいと思う相手はどのような考え方にあるのかを見極める、今カミングアウトしておかないといけないなどの状況に立たされる時もありますが、基本的には自分が伝えたい人に、伝えたいタイミングでカミングアウトするものであり、他人から詮索されるべきではありません。土地は人とつながる側面があり、どこが被差別部落なのかは、誰が被差別部落にルーツがあるのかにつながります。

 同性愛者や両性愛者、無性愛者、トランスジェンダー、DSDzなどの人たちがクラスや学年、学校、地域に一定の割合でいるという話を聞いた生徒の中から「(性的マイノリティは)お前やろ」「あいつじゃない?」「どこにいると思う?」、こんな会話に、カミングアウトできない当事者はどんな思いにさせられるか、実際の声や想像力を働かせ、「どこに部落はあるのか」を自分は何故知りたいのか、どんな思いで質問したのか、その結果、どんなことが誰に起きるのか、そして自分のことにも置き換え、今は知られなくないと思っている悩みや困りごとなどを詮索されることへの気持ちなどを考えてみることなどができるのではないかと思います。

 先生たちの中で、被差別部落にルーツのある人がいて、実際にカミングアウトは限られた人にしかしていない、普段は隠している、出身地を聞かれ答えた先で差別的に扱いを受けた経験がある人がいる場合、「先生はどこに被差別部落があるのかを知っている。先生はその被差別部落にルーツのある人たちから、差別を受けた経験、差別を受けることへの不安、今も限られた人にしかカミングアウトできていないなどの話を、時間をかけて関係をつくってきた中で教えてもらった。この人は、先生だから自分だから教えてくれたと思う。教えたくないということではなく、あなたも誰かがとても大切にしていること、簡単に人には言えないようなことをカミングアウトされるような人になってほしい。」というのはどうでしょうか。ちなみに、カミングアウトについては、以前こちらで書いていますので参考にしてください。

「ただ知りたいだけ」と「他の地域と何も変わりない」

 差別が今も残る社会で、生活のふとした場面で誰に差別を向けられるかわからない中で、「ただ知りたかっただけ」で被差別部落の所在地を知ろうとする考え方や発言が、被差別当事者に不安を与えてしまうことが出てきます。自分は何故、何のために被差別部落の所在地を知りたいのかを明確にする必要があるのではと思います。この「ただ知りたかっただけ」に近い反応もあって、それは、はじめて被差別部落にフィールドワークなどで訪れることがあった時、「被差別部落でない地域と『何も変わりない』」という感想になってしまうことがあります。「他の地域と変わりない」ようになるための運動や事業がそこには確かにあったわけです。正直な思いとして、そう思ったことを否定しているのではありませんが、この地域がどんな歴史性を持っているのか、現象面として今目で見える地域の様子は過去、悲惨な状況であったこと、地域の住環境の改善のためにとてつもなく尽力された人たちがいたことが想像もされない時です。

加害の側に視点をあて、構造の問題として捉え、構造を変える

 被差別部落の所在地はどこか以上に、何故、差別があるのか、起きるのか、残るのか、加害の側にこそ視点をあてて、改善し解決していくことこそ、求められます。差別が起きる構造とは何か、どうすればその構造を変えられるのか、どこに差別する人がいるのか、どうすれば差別意識が解消されるのか、誰が差別を支えているのか、差別を支えている側にそのことへの自覚してもらえるのか、そこにこそ力を注いでほしいと思います。加害の側に焦点を当てたとき「ただ知りたいだけ」とはいかなくなるはずですし、そうであってほしいです。

 また、部落問題に関する特権で考えていくと、

①被差別部落出身ではない人たちは出身地やルーツで差別を受けない

②出身地やルーツを意識させられることがない

③出身地を聞かれても相手の反応により日常的差別を受けることがない(話が突然終わり去っていく、表情がこわばる、態度がよそよそしくなる等)

などの優位性や恩恵を持っていることを前提にすることも大切になってくると思います。

 ご覧いただき、ありがとうございました。

 下記へのご支援もよろしくお願いいたします。

4件のコメント

  1. とても参考になるご意見をありがとうございます。私の地域でもこの質問を子どもたちから出ることを恐れて部落問題学習に尻込みしてしまうという教師がいます。その方の不安を解消できる答え方がないかずっと悩んでいました。

    1. いつもありがとうございます。インターネット上の差別の登場により、ますます学習で取り扱いにくいという声も少なくない中で、何か前へと進めるものを提供できればと思い、これからも発信していきたいと思います。

  2. 「加害の側に視点をあてて、改善し解決していくことが必要。差別が起きる構造とは何か、どうすればその構造を変えられるのか、どこに差別する人がいるのか、どうすれば差別意識が解消されるのか、誰が差別を支えているのか、差別を支えている側にそのことへの自覚してもらえるのか、そこにこそ力を注いでほしいと思います。」仰る通り、過去からの課題でもあると思います。どのようにそれを啓発していけばいいのか、どうすれば伝わるのか、ずっと考えているんですけどね。継続して考えていることが大切なのかなとも思っています。またご教示ください。

    1. いつもありがとうございます。
      やはり学校で、きちんとこうした内容まで生徒とともに考えることをやってほしいです。こうした場合は、先回りして一つの答えを先生たちが生徒や保護者に示してもらうことも大切かと思います。こちらこそ、よろしくお願いいたします。

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