ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」73 「思いやり・優しさ・心がけ」で差別はなくなりません!

 私はこれまでもブログで書いてきたように、人前で講演や授業などの機会に話をさせていただく機会を仕事でたくさんいただいています。今回のタイトルにあるように、マジョリティの特権、アンコンシャスバイアス、マイクロアグレッションなどの話や、差別は制度や慣習、構造の問題といった話に触れ、差別は「思いやりや優しさでは解決できない」と言い切り、解消に向け必要な施策を提案したり、個人として取り組めることを提案したりしてきています。あえて「思いやりや優しさを持つこと事態を否定していません」と前置きをしても、私の説明も不十分なこともあってか、そのことを信じてやまないのか、「やっぱり思いやりや優しさは大切だと思う」という講演や授業後に綴られたものが100人いれば1〜2人は必ずおられます。

 2020年度に三重県が実施した「人権問題に関する県民意識調査」では「思いやりややさしさをみんなが持てば、人権問題は解決する」という意見について、「そう思う」が17.4%、「どちらかと言えばそう思う」が31.4%、「どちらともいえない」が26.7%、「どちらかと言えばそう思わない」が12.9%、「そう思わない」が11.5%となっており、県民の半数以上は「(どちらかと言えばを含め)そう思う」傾向にあり、明確にそれではなくならないという「そう思わない」は1割程度です。

 2021年度に三重県教育委員会が実施した「人権問題に関する三重県教職員意識調査」でも「思いやりややさしさをみんなが持てば、人権問題は解決する」という意見について、「そう思う」が11.6%、「どちらかと言えばそう思う」が32.7%に及んでいました。

 説明の不十分さを補いたいこと、何よりも本当にそれでは差別を解消することはできないという立場から、ここでも発信していきたいと思いましたので、お読みいただければ幸いです。

何故、「思いやりや優しさ」で差別はなくならないのか

 差別とは、制度として存在するもの、慣習や観念としての存在するもの、社会の構造が差別を維持・存続させている、そうしたものが差別だと認識することが原則です。つまり、差別を生み出し維持する制度や慣習、構造を変革することでないと差別はなくなりません。また、それだけでも不十分で、差別を解消するための一定の基準を法律や制度などで整備していかなければなくならない問題です。

1)日本人に限定される自治体職員の採用条件は思いやりで解消されてきたわけではなく、マイノリティや支援者が不平等性や差別として運動を展開してきたからです。(現在は8府県しか実施されていません。実施されている三重県においても、「警察官や警察事務、建築等」に就くことができず、管理職にもなれません。国際人権規約を批准している日本において「働く権利」が国籍を理由に制限されるという差別が維持され続けています)

2)「自力通勤可能な人」と結果として「障害」者を排除してきた採用条件は優しさで解消されてきたわけではなく、障害者権利条約や障害者差別解消法において、結果として「障害」者を排除する制度や慣行を「欠格条項」という差別であるという基準がつくられ、自治体や事業所は「してはならない」と規定したからです。

3)同性パートナーシップ宣誓制度は、性的マイノリティや支援者等の異性の婚姻と対等な状態を求める権利獲得のための運動によって導入が広がっている制度です。

4)同性婚が法的に認められないのは、思いやりや優しさが足りないのではなく、法律で今も認めないという制度面の不備がもたらしている問題です。

5)建物などのバリアフリーやユニバーサルデザインが進み、広がったのはバリアフリー法やユニバーサルデザイン条例などの制度が整備されてきたからです。

6)日本国憲法では「義務教育は無償とする」とされているにも関わらず、教科書が有償であったことによって子どもが学校に通えないという現状に対し、高知県長浜の被差別部落の母親たちが立ち上がり、教科書無償化の運動を展開し、その運動は全国に広がり、差別や貧困を理由に「教育を受ける権利」が侵害されてきた問題が一定、解消されるようになりました。

 つまり、差別によって侵害されるのは誰に対しても保障されるはずの「権利」です。権利とは、思いやりややさしさなどに頼るものではありません。それを体現しているのは「マジョリティ」です。マジョリティは、この社会でさまざまな権利を保障され、侵害されること自体がほぼ起き得ません。健常者であることで社会障壁に直面させられることは起き得ない、日本人であることで制度的な差別に遭遇し権利が行使できないことは起き得ない、異性愛者への制度面における婚姻の自由が侵害されることは起き得ない、被差別部落出身ではないことを理由に出身地を理由とした婚姻の自由の侵害は起き得ないということです。このマジョリティに保障され、侵害されることのない権利は、思いやりややさしさとは全く関係がなく、構造として、制度として、慣習や慣行として、保障されているものです。

思いやり等がマイノリティを「しんどくする」ことも

 「思いやりや優しさがあれば差別は解消される」、これが正しいという場合、マイノリティはどのような状態に置かれるでしょうか。

 マイノリティはマジョリティから嫌われないように、嫌な思いをさせないように、機嫌を伺いながら、顔色を伺いながら、優しくされるように強いられる、優しくされる方法を取り続けさせられる、そして権利が侵害されていても、そのことを主張できなくなっていきます。どう考えても、それはおかしな話です。

 思いやりや優しさが人権問題や差別問題で強調される時に怖いのは、マイノリティへの支援やあるべき配慮などが、マジョリティの善意によって左右される、決められてしまうというおかしな状況を招くことにあります。また、マイノリティは支援を受ける度に、マジョリティに対して「ありがとうございます」「すいません」と言い続けないといけない状況に置かれます。お礼や感謝の意を示さないと、マジョリティが支援してくれなくなるからです。これは、どう考えてもおかしいし、マジョリティは無条件でマイノリティのようにしなくてよい条件を与えられています。仮にあるとした「怪我をした時」などではないでしょうか。

 「人権」とは、さまざまな権利の総称であり、「居住や移転の自由」を侵害する入居拒否問題、「婚姻の自由」を侵害する結婚差別問題、個別具体の権利が侵害される問題に対して、マジョリティの善意で取り組まれるものではありません。

 今の社会でマイノリティは、常にマジョリティとは非対等な関係性にある構造のなかに置かれており、差別や権利侵害、暴利や抑圧に対し、拒否できず、訴えられず、声をあげられず、自分が我慢すればいいという状況を強いられている構造的な問題であるということです。

アンコンシャスバイアスやマイクロアグレッションには対応できない

 また、思いやりや優しさを持つことによって、制度として存在する差別、慣習や観念としての差別、社会構造としての差別を差別だと認識することができるのか、無意識の偏見(アンコンシャスバイアス)や無意識の差別(マイクロアグレッション)を解決できるのかというと、それは極めて厳しく不可能に近いです。

 例えば、「白バイ隊員」「ボクシング世界王者」「大型バスの運転手」「大工さん」「パイロット」という職種から、どんな人を想像するかと子どもたちだけでなく、大人に向けて投げかけても、かなりの割合で「男性」をイメージされる人たちがいます。

アンコンシャスバイアスの例を挙げると、

1)高齢者はパソコンやネットに弱いと思う

2)保健の先生、音楽の先生と聞くと「女性」を想像する

3)自治会長と聞くと「男性・60歳以上・健常者・日本人」を想像する 等

マイクロアグレッションの例を挙げると、

1)海外ルーツの人に「日本語が上手だ」「お箸の持ち方がうまい」などと言う

2)「障害」者も同じ人間である

3)異性愛やシスジェンダー、パートナーや子がいる、親がいるなどマジョリティしかいないような前提での会話ややりとり 等

 このような日常的にたいていの人が気づけない「無意識」の偏見や差別を、「思いやりや優しさ」で解決できるはずはありません。むしろ「思いやりや優しさ」によって「マイノリティは不憫だ」「女性に重労働をさせてはかわいそうだ」「何かをしてあげないと」などマイクロアグレッションや好意的セクシズムにつながってしまうなど、問題性のほうが強くなっていきます。

人権や差別問題に関する「基準」は、条約であり法令であるという基礎基本

 日本は、国際人権規約、人種差別撤廃条約等の人権諸条約を批准・締結しており、国内法として六法全書に掲載されています。そして条約は、憲法の次に効力があり、国内法よりも上に位置しています。条約を具現化するために、地方自治体は人権問題解消の責務を有しています。

 ところが、日本の悪き特徴ですが、差別や人権のこと、ジェンダーのことになると、この条約や法令に明文化されている「基準」が軽視され、思いやりや優しさ、心がけ、個人的な価値観や思いなどを優先する傾向が根強く残されています。労働者の権利は、労働関連法や就業規則をはじめとする各規則などで定められています。首長や教育長、社長や校長が「皆さんの権利を守るために、管理職や上司は社員や教員、職員に優しく思いやりを持って接するようにしましょう」という方針や訓示が出たとして、これで本当に権利は守られるでしょうか。答えは「何の意味もなさない」です。つまり、普段、働いている時には、労働関連法や就業規則といった「基準」に沿って業務にあたっているのに、何故か差別や人権になると「基準」が軽視されていることが少なくなりません。コロナ禍で感染者等への差別が発生した際、一定数の自治体が「思いやりや優しさを持って差別を無くしましょう」と啓発していたのには愕然としました。

 とりわけ、政府や行政、教職員などの公の職に就く人たちは、法令に沿って仕事をすることが原則であり、それは人権施策を展開する、人権教育や啓発を展開する上で「基準」に沿って取り組むことが基礎基本です。よって、法令に関する教育が必要になります。公務員が業務に関わって法令を知らないということはあり得ないこと、あってはならないということです。

 今の時代であれば「ビジネスと人権」指導原則や行動計画です。

思いやりや優しさに頼らなくてよいのが「権利」「人権」

 コロナ禍で社会不安が増大してきたことで、生活困窮者が増え生存権が脅かされる人、虐待やDVで被害を受ける人が増加したのは差別や人権侵害が構造の問題である象徴です。政治の欠陥により30年もの間、経済成長しなかった日本において、賃金が上がらない構造のなかで、ガソリン代の高騰、物価の高騰、社会保障費の負担増などの状況がマジョリティ差別論を生み出し、オンラインハラスメントが深刻化してきているのは、社会構造の変化にもろに影響を受ける問題だからです。

 何故、差別が起きるのか、何故、差別が残るのか、そうした社会のシステムや構造を見定められるようになる必要があります。差別は「意識や心がけ」の問題ではなく、「差別を生み出し維持する制度や慣習、構造の問題」です。よって、制度や慣習、構造を変革していかないと差別は解消しません。また、それだけでも不十分で、差別を解消するための一定の基準を法律や制度などで整備していかなければなりません。この間の教育・啓発によって広がった「思いやりや優しさで差別はなくなっていく」という「誤った認識」を正し、差別解消のための制度設計、構造変革等に県や市町が連携し取り組んでいかなければなりません。

 人権とは、人の優しさや思いやりに頼ることをしなくても、権利は守られて然りであり、そのような制度設計、構造をつくる必要があるということが基本です。マジョリティには、実績や努力をする前からさまざまな恩恵や優位性という特権が用意されていることが、マイノリティには保障されていないという不利や不平等を思いやりや優しさで解決できるはずはありません。

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