ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」81 人権問題を「身近なこと」「自分ごと」として受け止めるためには何が必要?

 子どもたちや保護者さん、市民が差別のこと、人権問題のことを身近に捉えるためには、自分とつながりのあることとして見出すためには、どうすればいいのか、多くの人たちが苦慮していることと思います。これという答えがあるわけではありませんが、多角的に有効となるアプローチをしていくことが大切だと思いますので、まとめてみました。参考にしていただければ幸いです。

1 マイノリティの生き方や体験を自分の体験と重ねる・つなげるアプローチ

 自分の暮らしや自身のことに関して、家族やきょうだいなどとの関係や、友だちとの関係などの中で困ったり悩んだりしていること、知ってほしいこと、伝えたいことを持っている人がいます。それは、他人に知られると恥ずかしい、伝えることでどう思われるか不安、変に思われるんじゃないか、友だち関係がぎくしゃくしたり、溝ができたりするんじゃないか、離れていくのではないか、保護者に関しては怒られるのではないか、心配や負担をかけるのではないかなど、傷つけられる・傷ついてしまうことへの不安や心配があるために、そうした自分を隠したりごまかしたりするような生活を送っています。皆がそうではありませんが、こうしたことは誰かに知ってほしいこと、伝えたいこと、隠したり、ごまかしたりしたくないことです。

 マイノリティにとっては、自身や家族のマイノリティ性を知られることで差別を受けることへの不安から、本名やふるさと、ルーツを名乗れない、性的指向や性自認をマジョリティに合わせるなど、マジョリティであるように演じる、重度障害の家族、ハンセン病元患者の家族のことを隠すなどの状況に構造的に置かれていることと同じような状態にあるということです。

 コロナ禍の初期、新型コロナウイルス感染症の陽性者になったり、家族が陽性者になったりした時に、そのことを周りに知られてしまうことで、地元に住むことができなくなるのではないか、職場をはじめ、さまざまな場で差別的な扱いを受けるのではないかと不安や恐怖を感じ取り、感染したことを隠さなければ、ごまかさなくては、知られないようにしなくてはと思わされたのは、まさにマイノリティがこれまで置かれてきた状態そのものでした。そうした具体的な体験がマイノリティが構造的に置かれている立場を実感することができたというのも、つながるきっかけになった人が一定数いたと思います。言えないだけでマイノリティが身近にいるという前提をもって生活していく、人と接していくことが必要だと思います。

2 自分が差別をしたこと、差別を容認してきたこと、加担してきたこと等への課題意識のもてるアプローチ

 僕は、小学校の時、同級生にいた特別支援学級の生徒を間接的に差別した経験があります。教科学力が高いのはすごいこと、えらいことという歪みと偏りがあり、逆に言えば、勉強できない子を下に見ていた時代がありました。そんな考え方や価値観を持っていた時、「支援学級の友だちは先生からお菓子をもらっているから、あれだけがんばれるらしい」という噂が入ってきました。事実確認しないままに、あるホームルームで、そのことをそのまま喋った挙句、「僕も100点取れる時あるけど、いつも取れるわけじゃない『アホ』やから、お菓子が食べられる◯◯学級に行きたい」と発言しました。友だちの気持ちなど、全く考えず発した言葉は、今も後悔の念にかられます。

 この言葉にどれだけ傷ついたのか、友だちが語った姿も忘れることができません。明確に「差別発言」であることを自分が発したことは相当にショックでした。「自分も差別をする、これからもしてしまうかもしれない、だから勉強しないと」、そこからスイッチが入っていきました。「障害」者施設へ行き、交流することを提案したこと、隣保館にある「障害」者問題関連の本を読んだりするなど、今で言えば、自分の差別性に向き合おうとするきっかけになったと思います。

 僕よりもずっと若い子が、無意識に「障害」者差別発言をしました。この子自身は、その言葉に差別性があるとは全く思っていませんでした。職業体験でお世話になった福祉施設で、緊張し、おとなに話しかけられない自分に、最初に声をかけてくれたのは、施設の利用者である知的障害者のAさんでした。この人のおかげで職業体験を頑張り抜くことができ、いろんな人たちとのつながりを持てるようになり、とても感謝していました。しかし、自分の発言は、このAさんを差別することになったことを初めて知り、強いショックを受けました。先生と話をしていく中で、自分のうちに根ざす差別性に気付いたり、今度は差別をなくす側に立ちたいと、地区学習会に参加し、率先して発言していくようになっていきました。

 差別発言という、本来あってはならないことですが、結果として発言してしまったことをどう受け止め、どのように自発的に内面から変えようとするか、態度や行動につなげていくのかなど、その方向性を見出していくことが大切だと思います。差別したことも問題ですが、それ以上に、差別したことをどのように受け止め、どのように向き合い、何にどのように取り組んでいくのかが重要だと思います。

 また、差別を差別だと認識できなかったこと、目の前で差別が起きても、指摘することで関係性が崩れることへの不安などで指摘できず、差別を容認してきた自分と向き合っていくことが必要です。

 さらに、差別に対して何もしてこなかったことで、差別を解決する責任をマイノリティに背負わさせてきたこと・背負わさせていること、マジョリティ特権のところでも出てきますが、制度や慣習、構造的な差別に加担してきたこと・結果として差別を容認してきたことへの課題意識を持つことなども必要なアプローチです。

3 無意識の偏見、無意識の差別に気づく・自覚するためのアプローチ

 この社会は、「すべての人」に偏見や思い込み、決めつけを植え付けるように構造が機能しているので、「誰もが」偏見や思い込みをもたされていると思っています。その偏見や思い込みは、やがて差別につながっていくという点で、誤解を恐れずに言うと「人は差別するもの」とも思っています。これは構造的な問題だからです。しかし、だからといって仕方がないと開き直るのではなく、「だから差別しない努力・差別をなくす努力」が多くの人々に求められます。

 私たちがこの社会構造から浴びるさまざまな情報は、私たちに「無意識の偏見や思い込み、決めつけ」という「アンコンシャスバイアス」をもっています。これは、私たちが何かを判断したり決定したりする時に、自分では気づかないうちに持つ・機能している、ものや人への見方や考え方、とらえ方のことを指します。

 例えば、私は人前で講演やゲストティーチャーとして授業をさせていただくことが多くありますが「松村元樹」という名前や顔写真がフライヤーやホームページなどで紹介されていると、割と多くの方が私のことを「男」「日本人」と判断されています。私が、まだ自分の性自認のことを話もしていないのにです。ステレオタイプで物事を見てしまう、捉えてしまうことは日常的に起きています。さまざまな事例をあげながら、自身が無意識にもっている偏見や思い込みについて気付いていくためのアプローチが必要です。

 そして、アンコンシャスバイアスが差別に派生する際、最も多い差別の起き方は、「日常的差別」や「無意識の差別」と言ったりする問題だと思っています。「マイクロアグレッション」という表現もあります。

 「日常的差別」「無意識の差別」とは、「発言をした側には、差別する意図、人を傷つけようとする思考がないのですが、発言等を受けた側にとっては、侮辱されている、下に見られている、否定されている、疎外感を持たされた、ステレオタイプで見られた、等々の被害を日常的に、短いスパンで連続的に受け、やる気や気力を奪われるだけでなく、被害者の人生のさまざまな場面で悪影響をもたらす問題のことです。「ブラジル人はサッカーが上手」「海外ルーツの人は皆、母国語を話せる」「障害者も同じ人間だと思った」など、一見よいように思えて、実は相手を否定すること・侮辱になること・疎外感をもたせる結果につながる問題も、割と日常的に起きています。これも例示していきながら、無意識の差別の気づき、自身もこれまで出会った人に無意識の差別をしていたかもしれない、これから出会う人たちに無意識の差別をしてしまうかもしれないと課題意識をもてるアプローチを展開することが必要だと思います。

4 マジョリティの特権を学び、差別の問題をマジョリティ側が自分ごととして捉えるためのアプローチ

 差別や人権問題に関して「特権」という概念があります。日本では、上智大学の出口真紀子さんが第一任者です。

 「特権」についての私の解釈は、「努力せず偶然に得た属性がマジョリティ(例えば、日本人、健常者、異性愛者、シスジェンダー、被差別部落にルーツのない人、感染症等に感染したことがない人、経済的に安定した層で生まれ育った人等)であることによって、特定の社会で自動的に得られる、あらゆる優位性や恩恵」のことです。努力せずして異性愛者であるだけで、カップルとなり婚姻届けを提出すると、日本で法的に認められたカップルとなり、保険の死亡受け取りをパートナーに指定できる、クレジットカードの家族カードをつくることができる、携帯電話の契約において家族割を受けることができるなどの恩恵を自動的に与えれるということです。身体に障害がないだけで、乗りたい駅のホームから、乗りたい車両に、乗りたい時間帯に乗車できるという特権をもっています。日本人というだけで、日本国内において入居や施設利用を拒否されない、公務員になる用件を自動的に満たしているなどの特権があります。このような優位な状態に気づいていけないと、マイノリティというだけで不平等を強いられる制度的差別や構造的差別に気づくことができず、努力や実績とは無関係に、マイノリティというだけで不平等な状態を強いられる社会の構造や制度を支える側にまわってしまいます。差別とは何かを学ばないと、自分は無意識に差別を生み出し、維持する制度や構造、慣習や慣行を容認し、それだけでなく差別に加担してしまうといった課題意識をもてるアプローチも重要となります。

 このように、差別問題の解消をマイノリティに責任を課してはいけないこと、特権を学び、日常のなかから不平等な制度や慣習、構造を見出し、それを改善・変革しようとする取組がなければ、差別を容認する・差別に加担する側に立ってしまうといったことを意識できるアプローチが必要になります。

5 自分にとって大切な人が差別を受けるかもしれないことへの憤り等

 小中学校で取り組まれている、個人が尊重され、暮らしでつながる豊かな集団づくりは、その名の通り、学校だけでなく、子どもたち一人ひとりが家族と生活を送る中で起きる生活の変化や心の揺れ、困り事や悩み事などを抱えていたとして、そのことを誰かに知ってほしい、誰かに相談したい。それが例えば、保護者が不仲であること、離婚をしたこと、きょうだいからいじめられていること、虐待を受けていること、家にお金がないこと、保護者から常に誰かと比べられ続けていること、保護者から人生を決められ意思が尊重されないことや自由がないことなどを抱えていることがあります。家族のことだけでなく、自分自身の外見的なこと、障害や病気のこと、ルーツのこと、性的指向や性自認のことなどで悩んでいる人もいます。このようなことは、容易に人に言えるものではありません。「かわいそうな人」と思われるかもしれない。保護者が悪く捉えられるかもしれない。差別を受けるかもしれない。友だちが離れていくかもしれない。誰かにバラされるかもしれない。このような不安などを抱えていた中で、優れた実践を通じて、お互いのバックボーンを知り合い、暮らしでつながる豊かな関係を構築していきます。

 そのようなプロセスで、容易に人には言えないバックグラウンドを抱えている子たちの中に、社会的差別を受けるものを持っている子たちが見えてきます。これから社会に近づくにつれて、差別を受けるリスクを背負わされた友だちがいることが見えてくるということです。暮らしで豊かにつながる関係性の中で、そのような理不尽な差別を受ける可能性がある友だちがいることに対して、一人にしてはいけない、一人で向き合わせてはいけないなど、憤りや怒りなどを含めた感情や思いが芽生えてくることがあると思います。大切な友だちが差別を受けるなどあってはならないし、許せないというような関係性をつくっていくアプローチが必要だと思います。

6 マイノリティ性を有する人と出会うこと、場所に行くこと

 前述した内容と重複するところもありますが、実際に差別をなくそうと取り組んでいるマイノリティ性を有する人と出会うことでリアルに考えること、時には突きつけられることなどの刺激によって、これまでの「知識」であったものが「現実」となり「実態」となって、より関連性を持てるような機会になることがあります。差別や人権問題の存在を座学等で「知ってはいた」。でも、どこかリアリティにかけていた。そうしたものに、より具体性をもたせることができるのが出会い学習であり、地域や施設などへのフィールドワークです。もう少し言えば、出会いやフィールドワークを通じて感じ取ったことを交流していくことで、より「深み」を感じ取れたり、自分との関連性をより見出していけるような言葉や思いに触れ、人権問題を身近に感じることができるようになることもあります。普段、何気なく利用している道や施設に歴史があり、運動があり、差別があるということを認識できると、見え方が変わってきます。

 あえておさえておきたいのは、出会ったマイノリティが語る差別問題や人権問題の体験談などは、もちろん共通した属性を有しているので同様や類似した体験を持っていることがありますが、基本的には「一人称」としてとらえてほしいと思います。

 きっと、他にも、さまざまな身近に捉えることができるアプローチがあると思います。誰かが何かでつながりを見出すことができる、自分事と捉えることができると思います。生徒や保護者、同僚や市民などに向けて、多様で効果的なアプローチを展開していただきたいです。

 ご覧いただき、ありがとうございました。

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