ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」83 「見えることから、わかること、得られること」は限られている。「バックグラウンド」とは

 「バックグラウンド」とは、物事を取り巻く事情、事件などが起こった原因や背景、そして性格や、その人が今いる地位などを作り出した環境・生い立ち・育ち・経歴などを意味します。この人は何故こうなのか、このことが今こうなのは、どのような経緯や背景があるからなのかなど、見ているだけではわからないことがたくさんあります。人権問題に関しても、国や政府、自治体がこの事業を展開するわけがある、事業を展開してきた背景や原因がある、でも、それは知ろうとしないとまず見えてきません。そして現象面だけ捉え、マイノリティは優遇されているといった論調が広がりを見せています。「見えることから得られること、知れることは限られている」ということです。さまざまな例を挙げていきたいと思います。

とある日の日記

 先日、子どもが通う学校で、先生が子どもと話をしてくれていた中で「自分が病気になったこと」の話になったようで、その会話のやりとりから、子どもは保育園の年長の時に病気にかかったことを日記に綴り、それを通信に掲載してくれ、他のクラスメイトや、他の保護者に配布されました。その時の小学2年生の日記です。

タイトル「あしのぶつぶつ」

 私はほいくえんの時、あしぜんたいにぶつぶつができました。かゆくてほいくえんをながくやすみました。そして、ママが「なんだこれ、えらいぶつぶつだな。」と言いました。そして、パパが「こりゃあ、あかんわ。」と言いました。

と綴られていました。この内容について担任の先生からは、

「全体にぶつぶつ、◯◯さんはとてもかゆかったことでしょう。おうちの人の心配する様子がよく思い浮かぶ日記でした。

とメッセージを書いてくれてありました。

 こうした日記や一枚文集と言われる学校や学校以外の日常の一つの場面を綴るという取り組みの基本は、先生と生徒との会話です。先生が、4月から受け持つことになった初対面の子どもたちのことを知りたいと思うところからスタートしていきます。会話を重ねる中で、この子は今、何を思ってこの学級にいるのか、誰と仲良しなのか、去年、何が一番印象に残ったのか、好きな教科は何か、趣味は何か、熱中しているものは何か、学校以外ではどんな生活を誰と送っているのか、この子の保護者はどんな人で、どのような子育て経験があって、子どもにどんな願いや思いを持たれているのかなど、表面ではまず見えてこない、聞かないとわからないことの方が圧倒的に多いからです。そうしたやりとりの積み重ねと、家庭訪問や保護者との会話を重ねていく中で、子どもたちにとって何気ない日常ですが、実はとても大切なことであったり、丁寧に向き合わせていく必要があることが、見えてきます。

 日記や一枚文集などの醍醐味はたくさんあって、子どもたちのことを担任が知るために、小学校でいっしょになった子たちがお互いのことを知り合うためなど、いろんな使い方や活用ができると思っています。

 一枚文集でぬくことができないのは、生徒が自ら綴ってきた学校以外の場面のことや内面的なことなどについて、保護者と話ができるきっかけができることです。私の子どもが綴った「あしのぶつぶつ」の内容をもとに、保護者の側からも病気のことを話が聞くことができ、保育園の時の様子や去年のこと、家庭での子どものこと等々、詳しく子どもを知ることができ、保護者のことも知ることができるということです。

 わたしたちは経験や価値観、場合によっては思い込みや決めつけ、バイアスなどによって、「あしのぶつぶつ」がどのようなもので、保護者の反応からどの程度の病気かなどが何となくイメージされ、処理してしまうことがありますが、実は、想像されていることとは違うこと、この文面だけではわからないことがたくさん含まれています。ここでも「答え合わせ」が必要であり、それは会話を重ねていかないと明らかになりません。

 タイトル「あしのぶつぶつ」は、いつの出来事で、どのような症状があり、本人や保護者はどのような様子だったのか、どんな心情だったのかなど「具体的な事実」を書いてみたいと思います。

 私の子どもが年長の時に罹った病気は「IGA血管炎(アレルギー性紫斑病)」でした。溶連菌に感染し、菌が血管に入りこむと抗体が働きます。その抗体の働きによって血管内で炎症を起こし、それが紫斑となって皮膚に現れ、数日経つと茶色になり、やがて完全に消えていくという症状でした。病気が進行すると、腎臓に影響を及ぼし「腎炎」を発症することがあります。腎炎は、「IGA血管炎」を発症してから1年後に発症することもあるようで経過観察が長期間必要であると主治医から教えてもらいました。

 病気はほぼ完治しましたが、今も半年に一度の経過観察が必要であり、原因不明の珍しい病気のようです。病院の小児科の先生も症例としては珍しいようで、写真を毎回撮り、血液検査や尿検査を毎回ほどしました。

 子どもに出た症状の特徴としては、少しでも身体を動かせば足首などの関節が大きく腫れ上がり、足の広範囲にかなりの数の紫斑に出て、関節部分は強い痒みを伴うという独特な症状でした。

 保育園に行くと、身体がしんどくなるわけではないので、どうしてもはしゃいでしまいます。すると夜に必ず関節が腫れ、紫斑が酷くなるという状態を繰り返していました。そのため、保育園を休ませ、外出せずにじっとさせる日が続きました。動くことが好きな子どもに、「動いてはいけない」と言わないといけない保護者の側のストレス、何よりも親から「動いてはだめ」と言われる子どものストレスは半端なかったです。遊べない、身体を動かせないことに、泣きわめく日が何度もありました。「腎炎」を発症させるわけにはいかなかったので仕方ありませんでした。

 寝ていても足首の関節の腫れに強い痒みが出るので、夜中に目が覚めて「パパ、かゆくて寝れない」と何度も起こされました。その度に冷凍庫に冷却材を取りに行き、腫れた足首をアイシングをして、子どもが落ち着いて寝るまで待っている、私自身も寝不足になる日が丸1ヶ月ほど続きました。当然、寝不足の影響で、仕事でミスをしたり、集中力が低下したりするなど、さまざまな影響が出ていきました。

 子どもが「かゆかった」とだけ綴られていますが、紫斑や腫れには強い不安を抱いていました。自分の足を見て、本当に不安な表情をしていました。その足を友だちに見られたら「気持ち悪い」と思われるかもしれないと思い、「保育園に行きたくない」と言ったり、夏場でしたが長ズボンを選び、必死に隠したりしていました。子どもには「お友だちがそんなことを言ってきたら先生に相談しようね。◯◯は何も悪くないし、堂々としていたらいいよ」と言いましたが、その不安がそのまま現れている姿、ズボンで足を必死に隠そうとしている姿に涙が出そうになったのを今でも覚えています。それだけ私も「本当に治るんだろうか」と不安でした。

 園の保育士さんは、子どもの友だちに今の状態を説明してくれると、お手紙を書こうと完治したという診断が出たわけでありませんが、ようやく収まってきた様子を受け、登園した時に、子どもの友だちが「◯◯ちゃん、待ってたよー」と全員が迎えてくれた時、本当に嬉しそうな表情をしていて、見ているこちらも涙が溢れそうになりました。数年前の出来事ですが、今もそのことを鮮明に覚えています。「あの時、めっちゃ嬉しかった。今でもはっきり覚えてる」と最近、ふと話をしてくれました。

 本人がどこまで覚えているかはわかりませんが、保護者が子どもをどれだけ大切に思っているか、言葉や態度で全面的に現れていた時間でもありました。今では、怒ってしまうことが多々あって、日々反省です。

 私には、今、子どもが2人います。とても大切な存在です。こういうと、たいていの保護者は子どものことを大切に思っているものだとなります。それに異論があるわけではありません。たいていは無条件に子どもを大切に思うというものだと思いますが、私のバックグラウンドは、付け足しがあって、子どもは「本当は3人」だったことです。

 最初にできた子どもは連れ合いのお腹の中で亡くなりました。なかなか授かることができなかった中で、ようやくできた子どもでした。私や家族が、どれだけ悲しみ、残念な思いをしたか、今でも鮮明に覚えており、一生忘れることはありません。今の上の子は、連れ合いが破水してから出産まで3日間もかかりました。出産そのものが母子ともに命がけの中、本当に大変な状況で生まれた子でした。元々、子どもが大好きな中で、このような体験を経て、「自分の命など比較にならないほど大切な存在」です。2人めができるまでも、途轍もない苦労がありました。

 私と子どもや家族には、このようなバックグラウンドがあります。まだありますが、ここではここまで。

まだまだあるバックグラウンド

 私の父は、本来5人きょうだいでした。しかし、3番目の子はお腹の中でなくなり、5番目の子は1歳で亡くなったと聞いています。父は「3番目」という扱いを受けてきていますが、実際には「4人めだ」とよく言っていました。その父がお腹の中で亡くなっていたら、1歳で亡くなっていたら、今の自分はいないし、当然、私の子どもたちもこの世にいないということです。

 もう少し言うと、父は幼少期に母(私の祖母にあたる人)を病気で亡くしています。私の実家には祖母の白黒写真が一枚、飾られています。その一枚しかありません。父の父(私の祖父にあたる人)は、今でいう虐待に近いことを子どもにする人だったようです。暴力とネグレクトです。これにも理由があって、パートナーを救えなかったこと、子育てがわからない、ご飯が作れないなど複数の要件が重なって自暴自棄になり、子育てを放棄してしまうことがあったり、ストレスを子どもに暴力で発散するようなことがあったようです。そのような父たちをたくさんの地域の人たちが支え続けてくれました。ご飯も衣類も勉強道具も何もかも用意してくれたのは地域の人たちです。だから、私には地域への愛着、アイデンティティがものすごく強くあります。だから、故郷が差別を受けた時、故郷にルーツのある人たちが差別を受けるなど、絶対に許すことができないということです。

 これでも限定的な内容ですが、先ほどの日記の中には、こうした事実が存在しています。そのことを知って関わるのと、知らずに関わるのでは、全く質が違ってきます。

子どもたちのバックグラウンド

 これまで出会ってきた子どもたちにも、さまざまなバックグラウンドがあります。個人が特定されないかたちで紹介します。

①クラスメイトの一人が時折、みんなより早くご飯を食べ、昼から帰る子

 ①のような子を見て、他の子どもたちからは当初、「自分もお腹が空いている。あの子だけずるい」「自分も昼から帰りたい」という発言が出ていました。確かにお腹が空いていたり、帰って早く遊びたい、そんな状態や思いで、悪気も傷つける意図もない、思ったことが言葉に出たのだと思います。

 この時折、早くお昼を食べ、昼から帰る子は、精神に不調があり、定期的にクリニックに通う必要がある子です。担当の医師は他県からくる人なので、この子が通う病院には月に1度しか出勤せず、日時も決まっています。そのため、午前中は学校で授業を受け、時間に間に合わせるために早く給食を食べ、車で45分程度、走行して病院に向かう必要がある子です。この子は「みんなと食べる給食が美味しい。本当は病院には行きたくないけど、病気を治すためには仕方ない」と話をしている子です。

②「6年生」の「男の子」で、今もお母さんとお風呂に入っている子

 この子は、総合学習でゲストティーチャーとして呼ばれ、私が一通り話をした後、主役は常に子どもたちなので、「この時間、今まで伝えたくても言えなかった、知って欲しかったけどタイミングや雰囲気がなかなかつくれなかった子がいたら、自分のこと話ししてみる?」と投げかけた際、挙手をして、少し間を置いた後、「僕、今もお母さんとお風呂に入ってる」と話始めてくれました。すると、数人の生徒が「えー?」と言ったり、「クスクス」という笑いが起きてしまい、この子は下を向いてしまいました。「これはよくない」と思って、私が話をしようと思った瞬間、一人の子が「笑うな!」と強い口調で言葉を発してくれました。普段は、あまり落ち着いて授業を受けることができない、周りの子にたまにちょっかいを出してしまう子でした。この子の「笑うな!」という強い言葉は、母のことを語り始めようとした、この子に届きました。顔が上がり、「ありがとう」と言わんばかりの表情になって、次のようなことを話ししてくれました。

 僕のお母さんは、4年生の時、病気のせいで下半身が動かなくなった。お父さんは、長距離トラックに乗っていて、今まではお母さんも働いていたので、週末になると帰ってきたけど、お母さんが働けなくなったので、仕事を増やして、遠いところへ荷物を運ぶことになった。僕はお父さんに「頼むわ」と言われていて、家事をしている、お母さんをお風呂に入れないといけなくなった。大好きだったサッカーも、送迎をお母さんがしてくれていたけど、また大きくなったらできるかもしれないとやめた。だから、お昼休みにみんなとサッカーするのが楽しい。家に帰ったらできないから。僕には願いがあって、それは友だちが家に泊まりに来てほしいです。僕は泊まりにいけないので、誰か泊まりに来てほしい、夜遅くまで遊びたい。

 笑ってしまったり、「えー」と言ってしまった子たちに悪意はありません。でも、きちんと謝っていました。それでしか関係の修復ははかれないからです。その空間にいた子どもたちが本当に良い表情をしていました。のちに、この子が家事を優先しなければならなかったため、家で宿題をする時間がない、時折、授業中に眠ってしまう、そのわけも、このようなバックグラウンドを知ることができると、その理由が見えてきます。声がけをしなくていいのではなく、声かけをしながら、自分に何ができるのかを考え、行動に移そうとする周りが育ってきた実践例です。

③社会見学等で先生の車で移動し、見学施設の入り口の前まで送迎されている子

 小見出しの通り、ある課外活動の時、生徒さんたちはバスに乗り移動、見学施設に到着し、バスの駐車場にバスが停まり、暑い中、そこそこの距離を歩いて施設まで移動していました。ようやく施設が見えてきたその時、先生の車が施設の入り口前に停まり、一人の子が車から降りる姿を見たようです。すると複数の生徒から「あいつ、ずるいやん。俺ら歩いてんのに」という不満を含んだ声が上がりました。

 先生の車で移動していた子は、生まれつき、心臓に疾患がある子です。身体が成長するにつれ、疾患のない人たちは心臓も体に適用するように成長し、全身に血を送るのですが、この子の疾患は心臓の成長スピードが遅く、体を動かすと心臓への負担がかかってしまう状態になります。これまでの症例から、20歳まで生きられる保障がないと診断された子です。まわりの子たちは、このことを知りませんでした。この子のことを学校は子どもや保護者と関係をつくる中で、本人や家族の意向を大切にしながら、どのようにして周りの子たちに知らせていくか・いかないのか、丁寧な実践によって変わってくると思います。

 子どもたちは疲れたから、不公平だと思ったから、芽生えた感情を声に出しただけであり、そこに「悪意」はありません。しかし、知らなかったことで、さまざまなバックグラウンドを有する子どもたちや家族を傷つけてしまうことが実際に起きています。一人ひとりの状態に応じて、「公正」に「同様の結果」になるように必要なことをやっています。ここで紹介してきた子どもたちが、自分のバックグラウンドを無理に話す必要はありません。でも、子どもたちや家族が「本当は知ってほしい、伝えたい」と思っていても、そのことを安心して信頼して取り出すことができないのなら、話は変わってきます。安心できる関係や環境があれば、伝えたいことを出すことができます。

部落問題に関するバックグラウンド

 私は、部落差別を受けた影響を受け、今の仕事に就いています。小学4年生の時から就きたい仕事が決まっていて、その道を歩み、実現することができましたが、22歳で結婚差別を経験しました。その差別を経験しなければ、絶対に今とは違う人生を歩んでいた、4年生から思い描いていた自分の夢である仕事をしていたと思っています。なので、今、先生にお世話になっているうちの子は、そのような私の経験があった中で、この世に存在している子どもです。出会う人、その保護者や親戚などが被差別部落出身者との結婚を絶対に許さないといった人で、妊った子どもを中絶しろと迫る例は、残念ながら今もあります。親が差別に抗わなければ、この世に存在しなかった子どもたちがいるということです。

実際に子どもたちが綴った日記を例をあげてみます。

事例1

 「おばあちゃんちに行ってきた」と綴ってきた子どもがいます。先生のコメントを要約すると「おばあちゃんに久しぶりに会えてよかったね」というものでした。この子の保護者は、結婚差別により、部落にルーツのない母が母の保護者に結婚を反対され、親戚関係は、母の相手が被差別部落出身であることを理由に強い反対がありました。ほぼ駆け落ち状態で結婚をしたこともあり、被差別部落にルーツある夫は、今も連れ合いの実家に行くことができません。夫と一緒に連れ合いさんは一度も実家に帰ったことがありません。孫ができ、少しずつ雪解けのように母と母の保護者との関係は修復傾向にありますが、簡単なものではありません。子どもを連れて、たまに実家に帰る時には、「家に入る時は、こんにちはと言いなさい」「上がる時は、お邪魔しますと言いなさい」「ご飯を食べる時は、用意を手伝いなさい。いただきます、ご馳走様と言いなさい。絶対に立ち歩いてはいけない」「帰る時は、お邪魔しましたと言いなさい」など、母は具体的に子どもに戒めます。駆け落ち状態で家を出て、保護者や親戚が夫の故郷に未だ偏見を持っている今、少しでも夫を認めてほしいなどの思いから、母は保護者らに「孫は、礼儀正しく、言うことを聞き、きちんとしている」と思わせようと、そんな思いを今も引きずらされながら実家へ帰っています。

事例2

 「きちんと挨拶するように」というタイトルで、保護者から友だちの家に遊びに行くとなると、必ず言われることについて日記を綴った子どもがいます。先生のコメントを要約すると「あいさつはコミュニケーションの基本だから大切なことだよね」というものでした。この子の保護者は、幼少期、被差別部落ではない地域に遊びに行くとなった時、必ず祖母や母から戒めを受けています。「友だちの家に上がらせてもらう時は、必ずお邪魔します、こんにちは、ありがとうございました、お邪魔しましたと、必ず挨拶しなさい」と言われてきました。それだけでなく、「新しい靴下をもう一枚持っていきなさい。家へ上がらせてもらう時は新しい方に履き替えなさい」「友だちの家で一人にはならないように。家の物が無くなったり壊れたりしたら、真っ先に疑われるかもしれないから」など、声をかけられ続けてきました。過去には、遊びに行った友だちの家で、どこからきたのかを聞かれ、答えたところ「早く帰って」と自分だけ言われた経験をはじめ、母や母の友達などが実際にさまざまな差別に遭遇してきたことから、自分の子どもにはそんな思いをさせたくないという不安、願いや思いが含まれた言葉です。「同じ地区の子には言わないんですけどね(笑)。「今も、こんな不安を抱えないといけなくなるとは思いもしなかった。子どもには自分と同じ思いはさせたくない」、母の言葉です。

事例3

 「レシピ本なしで料理をつくる祖母」と綴ってきた子がいます。先生のコメントを要約すると「すごい!先生にも、教えてほしいな。一回食べさせてもらいに行こうかな」というものでした。祖母は非識字者であり、文字の読み書きができません。なので、レシピ本なしで料理をつくる選択肢しかなく、家族の食生活を支えざるを得なかったという中で身につけた物でした。この家庭は、近隣との関係がよいとは言えず、家に誰かが遊びにきたり、お酒を呑みにくるといった状況もほとんどありませんでした。学校の先生が孫のことで家庭訪問にきてくれることはとても楽しみで、最初は自分で漬けた漬物を「先生、食べ」と出して、「(味は)どうや?」と聞き、先生が「おいしいです」というと「そうやろ」と嬉しそうにしていると聞いています。家族以外の人が自分の作った料理をおいしいとほめてくれたり、認めてくれたりすることが嬉しかったようです。孫は、おばあちゃんが差別によって文字を奪われた中で、レシピ本を読めないということを知りませんでした。

最近出会った子どもと保護者の場合でも

 夫からDVを受け、逃げるように実家へ帰ってきた当時の母のお腹には、すでに赤ちゃんがいました。両親からは「そんな人の子どもなんだから、中絶しなさい」と迫られます。母は、自分のお腹に宿った新しいこの命を大切にしたい、この子を出産したいと思う一方で、両親の思いもわからなくはない、また出産したとして両親が孫である自分の子どもを可愛がってくれるだろうかと葛藤します。元夫から養育費をもらえるとは思えない、そのことで楽しい経験のできる場所に連れていくことができないかもしれない、遅くまで働かないといけなくなるかもしれないと思うと寂しい思いもさせてしまうかもしれないなど、さまざまな葛藤が襲いかかります。母の最終的な結論は「何としても我が子を守る。だから出産する」でした。このようなバックグラウンドを背負う、もしかしたらDVによってお腹にダメージを負い、亡くなっていたかもしれない、母が諦めていたらこの子はこの世にいなかったかもしれない、そんな子どもが先生たちの目の前にいるとわかった時、その子への見方、関わり方などにさまざまな変化が生じるものです。このような親の思いや姿は、意図的に出逢い直しをさせたいという意図を持った取組がないと、なかなか知れるものではありません。

 再度、押さえておきたいのは、このようなことを知った上で日記に載せてもらうのと、先生が知らずに載せるのでは、文集の質や値打ち、深みが全く異なってくるのではないかと思っています。また、それは、先生がつづってくれている最後のメッセージにも変化が出てくるのではないかとも思います。何よりも、子どもたちを見る視点、関わりなどにも、本質的に影響を与えていきます。

 本人に、友だちに、保護者に取り組みを通して、何を見せたいのか、何を見つめさせたいのか、知ってもらいたいのか、感じさせたいのかを大切にしてほしいと願っています。だから、家庭訪問や保護者とつながる、暮らしや生い立ちを知る、深く豊かにつながることが、こうした面でも大切なんだと思います。

 ご覧いただき、ありがとうございました。

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