ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」87 差別の現実は「個人的な感覚や実感」だけで判断するものではありません!

 部落差別解消推進法には、第1条の目的の1行目に「現在もなお部落差別が存在している」とされています。法律で部落差別があることを認めたことの意義は非常に大きく、部落差別の現実があるのかないのかは法律を認めるのか否かという時代に突入することになりました。2016年12月16日以降は、「法律で部落差別があると書いている」と根拠づけられたわけですが、「部落差別の現実が今、どのような状況にあるのかよくわからないけど、法律に書いてあるからあるのだ」という理解では不十分です。「法律に差別があると書いているだろう」と迫ったとしても、全く意味をなさないわけではありませんが、差別の現状認識や解決に向けた何らかの効果をもたらすかどうかについては、あまり期待できないと考えています。どのような部落差別の現実が、この社会に横たわっているのか、それは具体的な「事実」を持って認識していくことが必要であり、どのような部落差別を解決していかなければならないのかを明確にするためにも、差別の現状認識は必要なことです。

 残念ながら、客観的な事実をもとに部落差別の現実を認識できている市民や保護者は多くないだろうというのが私の印象です。それは実際に起きている部落差別事象をはじめ、市民の部落差別意識やインターネット上の部落差別、結婚差別や差別身元調査などの加差別の実態、被差別当事者(マイノリティ)が受けている・受けてきた部落差別被害などが、市民に認識されるような情報発信や啓発が少なく、不十分だからです。そして、1965年に出された「同和対策審議会答申」は今も生きている中、部落差別を解消するための個別の法律がなかった特別措置法失効から14年9ヶ月の空白期間の影響は非常に大きく、部落差別解消推進法が施行されましたが、法律の目的を達成するための具体的な施策が国や政府として十分に講じられていないこと、新聞やデジタル記事、インターネットテレビなどで部落問題が取り上げられていても、多くの人が視聴しているテレビ局では今も部落問題に関する番組や報道が行われないことなども、部落差別の現状認識が市民間に広がっていかない状態に拍車をかけていると捉えています。

 私が実際に経験してきたことなどをベースに書いてみました。

「個人的な感覚や実感」だけで推し測られている差別の現実

 部落問題に限りませんが、市民の中には、差別の現実を「個人的な感覚や実感」で捉えられてしまうこと、語られてしまうことが少なくありません。市民対象の人権意識調査の自由回答やアンケート、実際の声として「自分は部落差別を見たことがないし、聞いたこともない、昔はあったが今は聞かないし見ない」という「個人的な感覚や実感」が「今はもう部落差別はない」と捉えられてしまい、その捉えがマジョリティからマジョリティに伝えられていくなど、マイナスの影響を与え続けている状態にあると認識しています。その伝えられる方法は、巷の会話だけでなく、SNSやネットニュースのコメントなどでも、人々に影響を与えている側面があります。「自分が直接、部落差別を見たか、聞いたか」が差別の現実を推し量る物差しになってしまっているということです。社会問題は個人の感覚や実感だけで捉えるもの・捉えられるものではありません。「個人的な感覚や実感」だけで差別の現実を推し測ろうとすると、実際の現実に対する判断を誤ってしまうことになります。

 理由は、いくつかあります。ここであげることが全てではないことを抑えておきたいと思います。

「私は最近、差別を見ていないし、聞いていない」=「だから差別はもうない」という誤った方程式

 まず、基本的に被差別当事者(マイノリティ)の多くは、抑圧構造や差別被害への不安・恐怖、相談や救済政策の不備などを理由に差別を受けたということや、被害への不安や心配などについて声を上げられない・上げにくい構造に置かれているからです。先ほどのように「個人的な感覚や実感」で「部落差別は今はない」というマジョリティに対し、「今も差別はある」ということを説明しなければならなくなります。場合によっては、カミングアウトを伴いながら、自分が経験した部落差別被害のことを相手に伝えた時に、「それは考えすぎではないのか」「そういうこともあるだろうけど、それはほんの一部だ」と自分の認識や考えを変えようとせず、むしろ被害を受けた側の「勘違い」や被害を軽視し、場合によっては「なかった」ように置き換えられてしまう可能性に萎縮させられることがあります。カミングアウトをした際、差別的な言動を返されることがないとも限りません。他にも、被差別部落の人は「偏っている」「被害者意識が強い」「何でもかんでも差別という」といった扱いを受けたり、部落問題を取り上げた学習や研修があると、他の生徒や同僚などから「また部落の話か」「面倒くさい」「どうでもいい」とマイノリティがいない前提で、マイノリティの目の前でやりとりされることも少なくありません。他にも、研修や講演会の企画の際、「部落問題をテーマにすると参加者が少なくなる」「部落問題よりも大切なテーマがある」「無理して(無理はしていない)部落問題を取り上げなくてもいいのでは」といった意見にも直面させられます。

 そしてカミングアウトした相手が、本人の同意なく「あの人は同和地区の人だ」など、アウティング(暴露)される可能性も出てきてしまいます。今では、声を上げたり、運動の先頭に立って活動していくことで、インターネット上に自身や家族が晒されるリスクも増しており、声を上げられない・上げにくくなる抑圧構造やリスクは、より強く働いています。

 マスコミの方から取材をいただくことがあり、大変ありがたいことです。その中で、部落問題に関して取材を受ける時は、相当に覚悟を持って望んでいます。基本的に目立つことが苦手で、軽度かもしれませんが人見知りです。縁の下の力持ちみたいな役割が性に合っているし、管理職的な責任ある立場になりたくないし、組織に属するということが基本的に合わず、個人で自由に細々とやっていきたいというのが本音です。しかし、「誰かが声を上げないと」「誰かが前へ出ていかないと」、そんな思いと同時に「自分が人前で講演したりメディアに出演する機会が増えることによって、家族に何らかの危害が及ぶことはないだろうか」という不安は、いつも隣り合わせです。

「声をあげられなくさせている」ことへの無自覚と「聞こえないから差別はない」という誤った認識

 講演会や研修会などでマジョリティを前にし、カミングアウトをしながら、部落差別を受けたなど語れる人は、被差別部落にルーツのある人たちのほんのわずかな人数しかいません。被差別当事者(マイノリティ)が、こうした声を上げられない構造に置かれることによって、マジョリティに差別被害の声が届きにくくなる、「部落差別を見たことがないし、聞いたことがない。昔はあったが今はない」と思う人たちに、差別の現実が届かなくなってしまいます。個人の感覚や実感で差別の現実を推し量る側からすれば「聞こえてこない」ので「部落差別はもうない」という認識を変えることができないわけです。これは被差別当事者(マイノリティ)の責任ではなく、このような抑圧構造を機能させ、維持させ、無意識に支えているマジョリティが、その構造を変えようとしないこと、個人の感覚や実感ではなく、法律で書かれた部落差別は、どのようにこの社会に今も根ざしているのか具体的に、客観的に知ろうという行動を起こさず、受け身を続ける状態を変えず、「個人の感覚や実感」で「部落差別はない」という判断に行き着いてしまっています。

 こうしたマジョリティの「個人的な感覚や実感」で「部落差別を見ないし聞かないのだから、学校や自治体、事業所は、わざわざ寝た子を起こし、部落差別を再発させるようなことをする必要はない」という判断につながっていくことがあります。差別はないのに、何のために子どもたちに学習させるのか、何のための市民啓発をするのか、税金の無駄だ、部落問題学習など余計なことをするよりも勉強を教えてほしいなど、差別の被害を軽視したり、無化する構造が強化されていきます。数としても多い被差別部落にルーツのないマジョリティが正常性を抱きながら発するこうした声に、少数の被差別部落にルーツのあるマイノリティはますます声をあげづらい状態に置かれていきます。

そして「現代的レイシズム」とつながる

 以前からもありましたが、現在的レイシズムとも言われる今日的な差別が蔓延する中で「(部落差別は)ないものを今もあると主張するのは、何らかの利権を貪ることが目的だからだ」「部落差別があると主張することで自治体や学校、事業所などから不当に利益を得ている・得ようとしている」「部落差別がなくなると困る人たちがいる、そうした人たちが不当なことをやっている・やろうとしている」という新たな「当事者責任論」を生み出し、部落解放運動や当事者の不当な差別に対する声に対し「不当なことをするな、不正なことをするな」とマジョリティが、社会正義の名のもとに、反差別運動や差別からの解放を願うマイノリティに、攻撃やハラスメントを行うようになってきています。被差別部落にルーツのある人が、同和対策事業と無関係でも社会的な問題を起こした途端、「そら見たことか」「やっぱり」と不当に一般化されてしまう、こうしたことも声を上げられない状態に拍車をかけていきます。

 そして、約30年にわたり日本経済が停滞し、賃金は上がらず、それどころか物価やガソリン代は高騰しています。社会保障費の負担は増え続け、現在では50%弱という状態になってきています。そうすると、マジョリティの中から「努力しても努力しても報われず、今や将来に展望を持てなくさせられた人たち」が構造的に政治的につくられてきています。そんな中で、同和地区には特別対策が講じられ、進学にかかる奨学金制度があった、自動車免許を取得するための個人施策が展開されてきた、住宅家賃が低く設定されてきた、こうした取組は差別によって奪われてきたものをあるべき状態にするための積極的差別是正措置(アファーマティブアクション)であり、必要不可欠な政策です。しかし、事業が実施されてきたという「現象面」だけが捉えられてしまい、同和地区の人たちだけが優遇されている、マイノリティはマイノリティというだけで政府や自治体などがさまざまな策を講じているのに、こんなにも生活が苦しく、家族すら持てないような自分たちマジョリティには何の策も講じられない。これは差別だ」と死活問題と言っても過言ではないほど、苦しい状況、不安な状況を背負わされたマジョリティが、不平や不満を強く抱き、マイノリティだけずるいと認識してしまっていること、そして「マイノリティが権利を主張し、さまざまな政策を勝ち取っていく中で、マジョリティの自分たちには何もない。マイノリティがマジョリティにはない権利を獲得していったから、自分の生活はこんなにも苦しいのだ。許せない。今すぐにマイノリティへの取組を停止させ、本来、自分たちマジョリティに用意されていた当然の権利を取り戻す」などと解釈され、マイノリティへの政策をやめさせ、マイノリティがマジョリティに与えられている当然の権利を取り戻そう・勝ち取ろうという取組に攻撃をしかける状態に拍車をかけていきます。

 こうしたマジョリティの動きに、マイノリティは萎縮させられ、声を上げられなくなっていきます。

声をあげる当事者が総体的に減っている?

 マイノリティ側も多様化しています。被差別部落から転出し、被差別部落の外で生活する人たちが増えています。また被差別部落にルーツのない人たちが結婚や引っ越しなどを理由に、被差別部落に転入している人たちも増えています。これ自体に何か問題があるわけではありませんが、こうした状況は、アイデンティティの形成過程や部落問題認識に変化を生み出してきています。小中学校時代に熱心に人権学習に取り組んできた世代も、部落の外で生活すると、被差別部落にルーツがあるということを認識させられる機会に遭遇することがなくなることで、「差別が厳しいが故の当事者による寝た子を起こすな論」ではなく、「差別を見ないし、聞かないし、受けたことがないから、寝た子を起こすようなことをしなくていいのではないか」と、被差別部落にルーツがある地区の外に居住している人たちすらも「個人的な感覚や実感」で差別の現実を推し量ってしまっているということです。こうした被差別部落にルーツがある人が寝た子を起こすな論を主張することによって、「マジョリティがマジョリティに与える影響」以上の影響を与えている問題も出てきています。

 総体的に、運動に参画する人たちも人口減少、少子高齢化、転出超過、運動団体等への参画人口の減少などの影響を受け、減少傾向にあり、運動する人たちや声をあげる人たちが少なくなっていることも多少なりと影響している部分もあるかと思います。

 再度抑えておきますが、ここで書いたのは現状のほんの一側面だろうと思っています。差別の現実は、もっと複雑で多様な状態にあると思っています。

 ご覧いただき、ありがとうございました。

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