ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」95 「人権教育・人権啓発」なのに「権利」ついて教えないのは何故?「人権とは何か」の基礎基本

 20年近く、この仕事を通して、いろんな人たちと出会っています。その中で、いつも気になる、課題だと思うことの中に、「人権とは何か」が個人的な考え方である「持論」で語られていたり、学校では、子ども同士が仲良くすること、思いやりや優しさを持って接し合うことが「人権」として教えられていたりしています。人権教育と名づけているのに、権利について教えられていないという矛盾が長年にわたって持続しているところが少なくありません。大手タレント事務所をはじめ、劇団や事業所などにおいて発生してきた「人権問題」により「人権」への関心が高まってきている今だからこそ、正確に「人権や権利」について認識していくことが求められます。

 ここでは、主に「ヒューライツ大阪」で紹介されている内容を大いに参考にさせていただき、書いてみました。ヒューライツ大阪で紹介されている内容は、こちらです。

人権には「世界共通の基準」がある

 1948年、国際連合(以下「国連」という)において、当時の加盟国が賛成し採択された「世界人権宣言(以下「宣言」という)」の第一条には、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と謳われています。

 宣言の前文では、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である」とされています。

 そして「加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約した」とも謳われている。それぞれの国や地域の事情によって異なる人権があるのではなく、「世界共通の基準」として人権があり、「人権とは何か」を正しく認識する上で、世界人権宣言は、その手引きとなっています。世界人権宣言が採択されて以降、国際人権規約をはじめ、女性差別撤廃条約、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約、障害者権利条約なども採択されてきました。

 地球規模での基本原則は、

ということです。本来、こうしたすべての人が有する権利が、戦争や差別などによって侵害されることが起きています。

人権や権利は、憲法や条約等で定められている

 人権とは、抽象的で漠然とした個人の「考え方や思い」ではなく、宣言や人権関連条約や規約、法律で規定されているものです。具体的な個別の権利を上げると、

婚姻の自由、表現の自由、居住移転の自由、集会結社の自由、移動の自由、信教の自由、学問の自由、教育を受ける権利、働く権利、労働基本権、勤労の権利、社会保障を受ける権利、最低限の生活を送る権利、生存権、平等権、社会権、幸福追求権、請願権、裁判を受ける権利、財産権、プライバシー権、名誉権、差別されない法的利益 等々

であり、人権は、こうした権利の集合体をさします。人権を保護し、人権が尊重されるための法律をつくることや、制度を設計することは国の義務であることが原則となっています。

 こうした基本原則が、個別の条約にも規定されています。「子どもの権利条約」では、「生きる権利(差別の禁止)」「育つ権利(子どもの最善の利益)」「守られる権利(生命、生存、発達に関する権利)」「参加する権利(子どもの意味ある参加)」の4つの原則で構成されています。その上で、成人に規定されている権利の多くが子どもにもあるとされています。

 こうした権利を侵害する社会問題について、部落差別でも、具体的な権利の視点で整理された基準があります。1965年の「同和対策審議会答申」です。答申では、「近代社会における部落差別とは、ひとくちにいえば、市民的権利、自由の侵害にほかならない。市民的権利、自由とは、職業選択の自由、教育の機会均等を保障される権利、居住および移転の自由、結婚の自由などであり、これらの権利と自由が同和地区住民にたいしては完全に保障されていないことが差別なのである。これらの市民的権利と自由のうち、職業選択の自由、すなわち就職の機会均等が完全に保障されていないことが特に重大である。」と定義されています。ちなみに、同和地区や被差別部落の出身ではない人たちは「出身者や当事者ではない」ということを理由に、上記の権利が侵害されるような差別は、まずおき得ず、それは努力や実績とは無関係なものです。

「思いやりや優しさ」と「人権」は別個の問題

 ここまで紹介してきたように「道徳や倫理」、「思いやりや優しさ」で、温かく、誰もが住みやすい社会をつくろうとしても、人権が守られる、保障されるとは限らないということがお分かりいただけると思います。しかし、日本では、人権が「心の問題」に置き換えられてしまっており、非常に広範囲に深く浸透してしまっています。今でも法務省・局では、人権啓発のおりなどに「思いやり」を用いているため、国をあげて誤解や曲解が広げられています。

 思いやりを持つこと自体は大切ですが、それが強調されてしまうと、マジョリティがマイノリティが直面させられる困難に対し、「やってあげる」感を持つようになり、マイノリティが権利を求める声をあげる、不当性に声をあげると「生意気だ」といった反応を示すようになります。「障害」者が移動の自由を行使できない場面に遭遇した際、マジョリティが補助することがあります。それに異論は全くありません。しかし、マイノリティは補助してくれた相手に「すいません」「ありがとうございます」などを必ず言わないといけなくなります。そうしないとマジョリティが途端に気分を害し、次に補助してくれなくなるからです。マジョリティの顔色や機嫌を伺い続けるという「非対等な関係」がつくられ、それがいつまでも続いてしまいます。マジョリティは、階段が設置されていることに対し、誰かに感謝を抱いたり述べたりすることはありません。

今のままでは「人権」を正確に認識できない

 日本では、「人権とは何か」「権利とは何か」について、正確に認識できる学習機会が、学校教育や社会教育で不十分であり、そもそも必須とはなっておらず、公教育で教えるしくみが整備されていません。権利について教えることが大切だという認識を持つ先生が授業で扱うという状況にあり、今のところは個の力量、個の学校の裁量に止まり続けています。「子どもの権利条約」に批准したのに学校で子どもたちや保護者に教えられていない、「障害者権利条約」に批准したのに「障害」児者やその保護者、いわゆる健常者にも教えられていない、こうした状況が今も続いています。私自身も、小学校から中学校、高校と「人権とは何か」「権利とは何か」について教えてもらったことがなく、この仕事に就くまで正確なことを認識できていませんでした。

 いかに、人権や権利のことが正しく認識されていないかは、「人権ポスター」「人権作文」などに現れています。学校で、生徒が書いてくる人権ポスターなどの例で言えば、「笑顔、ハート、花、太陽、優しさ、思いやり、手をつなぐ、仲良し等」になります。一方、欧州や欧米における人権ポスターなどでは「こぶしをかかげる、手を挙げる、声をあげる・出す、手錠や鎖から解き放たれる、連帯等」などが多く採用されています。先生が正しく認識できていないがために、生徒にも正しく伝えられないし、保護者や住民にも伝えられないということが、長期にわたって続いており、教育委員会も同様であるということです。人権とは「争議性」を伴うものです。

 つまり、人権について規定している世界人権宣言や国際人権規約や各種人権関連条約、日本国憲法や権利を謳った法令の内容を認識しなければ、「人権とは何か」を正確に捉えることはできないということです。

 人権を正確に認識する上で、自分の権利や自由を主張したり、行使したりするにあたっては、他の人の権利や自由を尊重し、まもることが原則です。人権は、無責任な自己主張や、他の人の権利や自由を否定する目的で行使してはいけません。

人権とは「結果」として権利が守られる、行使できるようにするということ

 この絵は、「平等と公正」についてわかりやすく表現されたものです。身長の違う3人が木の実をとろうしている様子を描いています。絵の引用元が不明なものが多いので、自作しました。

 左側の絵は「平等」を表しているとされています。個々の状態や属性、優位性や劣位性を「無視」して、一人に一つ箱を提供したものです。そうすると左の人は箱がいらなくても木の実をとることができますが箱が一つ用意されています。真ん中の人は箱が一つ用意されても、まだ木の実をとることができません。右の人は、もともと身長が低いので箱一つでは木の実がとれない状態になっています。

 右側の絵は「公正」を表しているとされています。個々の状態や属性、優位性や劣位性を重視した上、必要な人に必要な分の箱を提供したものです。そうすると左の人は箱がなくても木の実をとることができます。真ん中の人は箱が二つ用意されたことで木の実をとることができるようになります。右側の人は、箱が三つ用意されたことで木の実をとることができるようになりました。

 権利は、誰もが努力や実績関係なく有するものであるということが、世界基準であると紹介してきました。つまり、権利が行使できる「結果」になることが人権が守られている、保障されているということになり、左側の絵は真ん中と右側の人の「人権」が守られず、行使できていません。

 ちなみに、まだまだ多くの人の認識は次のような図の状態にあるようです。

 この絵は、左側のように、世の中、すべての人は平等な条件を持って生まれてくるという認識の状態です。前の絵のような明確な差異や不公正はないという認識にあるということです。このような左側の認識を持っている場合、右側のように、自分は左側の存在で、真ん中や右側はマイノリティとした際、必要な措置を講じているにもかかわらず、自分以上に一つ・二つと自分にはない権利を有する状態となっており、これは不公正だという認識を抱くということを示しています。マイノリティの及ぶ不公正と、マジョリティである自分が有する特権への理解がなければ、こうした認識と、それに伴う問題が発生してしまいます。

 生まれ持って与えられた、この社会を生きる上で優位な条件の量は、人によって違い、それは努力や実績とは無関係です。人は、偶然にも、人生は、そのスタート位置自体に差があるところからはじまっているということです。そうした中で、公正に権利が行使できるような状態をつくるためには「不平等」に配分しないといけないということです。

権利と自由から、差別を捉えなおす

 差別は、こうした誰もが持っているはずの権利を侵害する問題です。前述しましたが、出身地やルーツを理由に、婚姻の自由が侵害されるという問題がこの社会で起きています。その「婚姻の自由」が出身地やルーツを理由に侵害されている人たちの多くが「被差別部落にルーツのある人」「海外にルーツのある人」です。私たちには、一人の漏れなく「移動の自由」が与えられています。そうした中で、駅にエレベーターない、特定の施設では段差があちこちにあり、バリアフリー化されていないことによって、駅を利用できない、施設内で自立で移動できない結果に置かれるのが「障害者」に集中するということです。

 差別は、こうした権利が侵害され、自由を行使できない問題が、ある特定の属性を有し、その属性がマイノリティ側にある人たちに集中的にひどく発生する問題です。そして、マジョリティの属性を有する人には、誰もが持っている権利が侵害されることが発生しにくく、自由を行使できないことも発生しにくいという構造的な問題であるということです。日本は、まずマイノリティ性に着目し、差別や権利を考えるという認識がかなり広がっていますが、まずは権利や自由を正しく学び、その権利や自由が保障されず、侵害され、行使できない問題がこの社会で起きており、そのしわ寄せがマイノリティに集中している、これが差別であるという捉えが必要になります。

 ご覧いただき、ありがとうございました。

2件のコメント

  1. 人権の係をしていて権利の話をちゃんと取り上げたことがない。アンコンシャス・バイアスとマイクロアグレッションは生徒たちの腑に落ちやすかったという実感がある。平等と公正の絵はたぶん松村さんの研修を受けたであろう前担当の須貝先生の校内人権学習の還流学習会で4年前に学んだ。研修会への出席率も高く、アンケートにも真摯に答えてくれる人が多い職場なので、いっそうきちんとした研修会を企画しなければと感じています。依頼文書の発送が遅れていて申し訳ありません。

    1. 個別の人権課題が学習等に入る日本式を、そろそろアップデートし、権利から学習に入っていけるように提案していきたいし、システム化され、すべての学校で取り入れられるように提言もしていきたいと思っています。よろしくお願いいたします。

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