マイノリティ性を有する保護者のなかで、子どもに社会的な立場を伝えるということについて、子どもに伝えるとした場合、それはどれくらい時期やタイミングに伝えるのか、どのように伝えるのか、何を伝えるかといったことや、他にも立場を知った際、下を向いてしまうことはないか、本来背負わなくていい重荷を背負わせることになるのではないかなど、悩みを抱える人たちと出会っています。社会的立場を伝えるという行為は、ある種の「カミングアウト」だと思っていて、それは保護者自身の体験やアイデンティティのことを含めて伝えられる場合があるからです。これまで子どもに話してこなかったことを打ち明ける機会でもあるからです。
そうすると、まず「カミングアウトする側」は、何を相手(子ども)に伝えたいのかについて整理しなければならないというものではないし、ぶっつけ本番のような場面がくるかもしれないし、用意していたけど本番になると緊張して上手く伝えられないことなどがあるようです。
何を伝えたいのかについて、どんなことがあるかと考えてみると、
差別の厳しい現実を伝えたいのか。
保護者自身の被差別体験を伝えたいのか。
自分のアイデンティティの形成プロセスを伝えたいのか。
部落差別という社会問題の存在があることを伝えたいのか。
保護者の自分は被差別部落にルーツがあるので、子であるあなたもルーツがある、だけど自分が被差別部落出身者かどうかを決めるのはあなただ的なことを伝えたいのか。
あなた自身も差別を受ける可能性がないとは言えないということを伝えたいのか。
保護者にとって生まれ育った場所への思いや誇りなるもの、すべての人の自己実現や権利保障をめざす運動に関わってきた自分や地域の人たちの存在や思い、願いを伝えたいのか。
などがあったり、この内容にあてはまるものがない人もいるだろうと思います。伝える内容について、テンプレートのようなものがあるわけではないし、一人ひとりのおいたちや経験や捉え方やアイデンティティの形成過程が違ってあたり前なので、伝える中身も違ってくるし、子どもの性格的なもので調整を必要とする場合もあると思います。
この伝えたいことについて、保護者が自ら整理できる人や、自ら周りに相談をかけるなどして、整理できる人がいますが、そうした人たちばかりではありません。突然、被差別部落にルーツがあることと差別の現実を告げられ、下を向き、学校で元気がなくなり、地域の学習会にも参加したくないといった状態になった子どもたちと何人か出会っており、前を向けるようになるために、先生たちとあれこれ相談しながら関わっていったことがあります。
学校では、濃淡や実践力の差はあれど、子どもたちそれぞれが友だちに知ってほしいこと、伝えたいことがあった場合、伝えたい時に伝えられる環境や関係づくりに取り組んでいるところが多いというのが、20年間で県内の小学校をまわってきた印象です。「濃淡や実践力の差」と書きましたが、本来もっと丁寧に書かなければならないと思いながらも、あえて「濃」で「実践力が高い」先生と表現した場合、家庭訪問を重ねたり、子どもたちと話をしてきたりして、この子は何に困り、何に悩み、何を伝えたいと思っているのかを丁寧に掴みとり、先生と生徒とのやりとりのなかで、何を伝えたいのかを整理していく取組が積み上げられていきます。
先生が生徒に質問を投げかけるなどして、このことってどう思っていたの?、このこともう少し詳しく聞かせてくれる?、これはこういうことかな?などのやりとりを積み上げるなかで、生徒自身も伝えたかったこと、知ってほしいことを整理していけることがあります。この先生のような役割を担える人たちが、子どもに社会的立場を伝えようとしながらも悩み続ける保護者さんともやりとりが必要だと思っていて、それはやはり先生に担ってほしいと思っています。それは子どもたちの一生にかかわってくるからです。
これは当然ながら部落問題だけに限りません。保護者が何を子どもに伝えたいのか、伝える必要がないと思っていることが、子どもにとってはとても大切なことであり、出会い直しをさせたい、知らせたい保護者の経験や願い、思いがあったりします。普段、高圧的に言葉を向けられたり、言い合いの多い親子関係のなかでも、親はどんな経験をしてきたのか、どんな環境で育ってきたのか、何を大切にしてきたのか、子どもが産まれた時のこと、はじめて大きな病気になった時、どんな思いでいたか、心配や不安、喜び、家事労働や賃金労働に関しても、どんな思いで仕事をしていて、何故その仕事をするようになって、大変なことや悩みは何で、何がやりがいで、どんな時に嬉しいなどと思うのかなどについて、子どもが知っているのと知らないとでは、親子の関係性に大きな差が出ます。保護者にとっての「わざわざ伝える必要のないもの」が、子どもの今や将来にとって「とても重要なこと」があったりするわけです。
つまり、家庭訪問を度々行うなどして、保護者との関係を築き、保護者のおいたちや思いに深く触れていけないと、大切な機会なのに本当に伝えたいこと、伝えていくことが大切なことに保護者が気づけず、子どもは知らないままになってしまうことになりかねません。
「カミングアウトする側」がいれば、「カミングアウトを受ける側」にもつけたい力などがあります。何かをカミングアウトされた場合、それを軽視したり無化するようなことではなく、相手が伝えてくれたことは、私にも関係があること、カミングアウトしたからといって解決されない悩みや困難であったり、自分以外に誰がそのことを知っているのか、これから誰かにも伝えたいと思っているのかなどについて、自分は気にしていける関係でありたいなど、自分なりの「自分事」にしていける力があったらいいと思っています。他にも、何故自分にカミングアウトしてくれたのか、何故伝えようとしてくれたのか、カミングアウトを受けた自分はこのことをどのように受け止めていけばよいのか、何をどう返していけばよいのかを考えていける力もつけていきたいものです。
例えば、学校での人権教育が定着していて、教育集会所での地域での学習会も実施されていると、地域の学習会(地区学習)で地域を探検したり、友だちの家のことを知ったり、地域の名人さんと出会ったり、地元の地区市民センターや隣保館などの公共施設の役割を学んだり、施設で働く人が何故ここで働いているのか・どんな思いで働いているのか、地域の歴史や変遷を学んだりしていくのは、「社会的立場の認知」への布石の一つです。そうなると、何故、この学習をするのか、この学習を通して子どもにどんなことを積みあげたいのか、子どもは何を感じ取っているのか・何を感じ取らせたいのかなどについて、地域の学習を進める側だけでなく、子どもの保護者も認識できているかどうかは重要で、それは「カミングアウト」の中身にも深く関係してくると思います。
ちなみに、まさかの「部落問題学習、もうしましたよ」と学校から事後で報告を受けることは、どんな学習なのかがわからないし、子どもが何を感じ取ったのかわからないし、学校から突き放された感覚になるし、学校から不安を上乗せされた感覚にもなります。これもちなみに、保護者の了承を得てからでないと学習してはならないということではありません。「保護者とともに」という気はないのだと思わさないでほしいものです。
私の場合は、保護者自身のおいたちや運動に参画するきっかけ、部落問題との出会い方など、バックグラウンドを聞く機会が用意されていて、知らなかった保護者の姿と出会っていて、父は非常に苦労を重ねたおいたちをもっていますが、一方で地域として支えられてきた事実と、私自身がその地域でとても大切にされ、具体的な人が見えるなかで、またその人たちの思いにも触れ、肯定的なアイデンティティをもてるようになりました。
こうなってくると、そもそも子どもに関わってくれる先生たちは、例えば、部落問題とどんな出会い方をしていたり、どんな考えやスタンスであったり、先生にとって最も身近な人権課題は何で、それは何故なのかとか、先生自身が誰かに何かを伝えたいということはないのかとか、伝えた経験はあるのかとか、先生ならどう伝えるかとかなどを聞いてみたくなったりします。
そして重要なことがもう一つ。差別をなくすための運動や活動をしている人たちだからといって、何ら悩むことなく、オートマチックに子どもに向けて社会的立場を伝えられるとは限らないという点です。もちろん活動をしていることで、活動していない人たちよりは、得られる材料の差はあるかもしれません。とはいえ、いつ伝えるか、どのように伝えるかに悩むことや、整理がつかないこともあるということを忘れてほしくないと思っています。このブログでも何度か書いていますが「先回りせず、思い込まず、事実を蓄える」ということです。
ご覧いただき、ありがとうございました。