ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」44 人を変えるより、自分を変えることが割と大切!

 小中学生を相手に授業や講演をさせてもらうと、例えば、授業中、立ち歩く子、静かに授業を受けられない子、すぐに諦めてしまいクラス全体としてなかなか取り組めない子、人が嫌がる言動をしてしまう子などに、周りの子どもたちが「あの子が変わらないといけない」「あの子が努力しないからいけない「注意しても聞かないので諦めている」という意見を聞きます。落ち着いて授業を受けたい、「みんな」で一つのことに取り組みたい、傷つけられたりすることのない安心して過ごせるクラスをつくりたいなど、子どもたちなりの願いがあるからです。こうしたことは何も子どもたちに限ったことではなく、おとなの世界にもたくさんあります。

 一様には言えませんが、こんな時、打ち合わせをしている先生や生徒さんたちに話をしていることを書いてみたいと思います。

家事を一切しなかった父(少し長めです)

 「人を変えるより、自分を変えることが大切なのかも」と思った最初の経験は、父親についてでした。幼少期に、「ゴリゴリの昭和魂」という価値観の中で育った父は、「家事と育児は母親(女)がするもの」と非常に強く捉えていました。父が仕事を終えて家に帰ると、お風呂が沸いていて、お風呂から出るとすぐにビールが飲める。仕事で疲れて帰ってきたんだから、それくらいは当然、的なスタイルです。

 一方、母は絶対に、そうした父の振る舞いに「ノー」を突きつけたかったはずですが、機嫌を損ねたくない、経済的な面で圧倒的に父が生活を支えているなどから、指摘するような場面はなかったと記憶しています。

 そんな中、内職をしていた母は、私が保育園の年中くらいになって自動車免許を取得し、仕事をするようになりました。父は、そのことをよく思っていませんでした。父が家に帰っても母は仕事、あるいは仕事おわりに買い物をして帰るのでいないことが気に入らなくて、「仕事なんかせんでもええ」みたいに怒り出すことがあり、それを聞いている側の私は「なんで?」と思いながらも、怒ると怖い父に逆らえず。

 小学校4年生だったと記憶していますが、あの日、父は仕事が休みで、学校から家に帰ると、寝そべって時代劇を見ていました。朝食に使ったお皿はそのまま、掃除機をあてた形跡なし、テラスの下に干してある洗濯物も干しっぱなし。「休んでたのなら、家事したらええのに」と思い、年齢的にもやや抵抗できるようになってきたこともあって、父に「お皿洗うとか、洗濯物を取り込むとかしたら?」と言うと、「それは母親の仕事や。それができひんのなら仕事なんかしやんでええ」とややキレ気味。「はあ〜」とため息が出そうな中で、その後も何度か言うのですが、同じ回答で、次第に「やっぱり言うてもあかんわ」と諦めモードに。

 人の粗は見えても、自分の粗は見えず。ある時、また同じような状況になった時、「もう言うのやめとこ」と何事もないようにしていたら、あることに気づきます。「父に家事をしろと言っている自分がしていない」「人に言うくらいなら自分でやるべき」となって、外に干してある洗濯物を取り入れ、お皿を洗い始めました。すると、父が「それはお母の仕事や。するな」とテレビを見ながら言ってくるので、「したいねん」とだけ言って、家事をしました。

 母が家に帰ると、父はすかさず「子どもが家事してるぞ」と言うので、母は私に「ありがとうな。でもお父さんに怒られるからやめて」と小声で言ってきました。「なんでやねん。やれるもんがやったらええやん」。私は計算高いところがあって、家事を始めた動機は確かに自分がしていないでしたが、「ある程度の家事を済ませておけば、母がすぐに料理に取り組め、早くご飯が食べられる」と気づいた割合の方が後に高くなりました。帰ると、お風呂を洗い、お皿を洗い、洗濯物を取り込み、時間があれば掃除機。

 これが一年近く続いたある日。学校から家に帰ると父の車が停まっていて、いつもより早く仕事を終えたようでした。家に入ると、キッチンでお皿がカチカチ当たる音が。「もう待ちきれなくて、今から酒でも呑む気やな」と思いながら、「ただいま」と上がると、父がお皿を洗っている衝撃映像が。思わず「なにしてるん?」と見たらわかることをあえて聞くと、恥ずかしそうに「皿洗ってんねん」と父。しばらくして母が帰ってくると、私に「今日もありがとう」と言うので、「ありがとうはもうええねんけど、今日はお父さんが洗ってた」と返すと、目を見開くとは、あんなことを言うんだろうという様子。私が「でも見て。お皿に泡ついてる」と言うや否や、母が私の口を塞ぎにきて「それは絶対に言うたらあかん。黙って流しといたらええの」と言う。

 これ以降、父は家事をし始めました。料理もするようになり、「俺がつくった卵焼きと味噌汁は最強」みたいにして、「うまいやろ」を押し付けてきました。「うまい」と言わないと機嫌が悪くなるので、それはそれで面倒臭い。

 私やきょうだいは最初に亡くなるのは父だと思っていたが、母が65歳で亡くなりました。葬儀を終え、しばらくした時、どうしても父に言いたかったことがあって、それは「あの時、家事し始めてよかったやろ」です。「ほんまそう思うわ」と呟くように話していました。あのまま、父に家事をしろと迫っても、こうなっていなかったのではと思っています。自分の変化が、周りの変化につながると思い始めた事例でした。

「あの子を変える」ではなく「自分が変わること」

 保育園から中学校まで一緒だった同級生のS。園の時からヤンチャで「迷惑」をかけることが多く、友だちと喧嘩をすることも頻繁。とにかく「いらんことしい」で人が嫌がることを言うしやる。気に入らないことがあると暴れる。私は、この子のことが基本的に嫌いでした。温厚な私も、小学生の時、この子と肩がぶつかった程度で、家でのストレスも影響してか、取っ組み合いの喧嘩をするほどでした。

 「人の邪魔をする、人を傷つける、指摘したらすぐ怒るあいつが変わらない」という見方を強く持っていて、嫌いなので、行間や休みの日に遊ぶこともほとんどありません。でも変わるべきは、この子ではなく、「周り」にいる「私」でした。

 私を含む周りから「ヤンチャ」のレッテルを貼られ、その一面でしか捉えられず、この子の行動の理由を、学校以外の生活のこと、表では見えない裏にあるものを知ろうともしませんでした。この子を遠ざけようとするから、寂しくて余計に寄ってくる。でも自分には周りを自分に引き寄せられるものが何もない。家はお金がないし、父は暴力的な面があるし、基本、家で妹の面倒を見ないといけないし。この子の寂しさや悩みや困りごとを、遮断してきたのは、紛れもなく私でした。

「勉強わからへんから教えて」と言わせない

「友だちの家でも遊んだことないから遊んでほしい」と言わせない

「友達が家に来てくれたことがないから遊びに来て」と言わせない

「寂しいから構って」と言わせない

「このしんどさを誰かに聞いてほしい」と思っているのに言わせない

 そんな私が作り上げたSでした。Sが何を背負っていたのか、何を思っていたのか、本来のSの姿を聞ける関係性やクラスづくりの実践をくぐってから、Sはとても落ち着いた様子になりました。これが本来のSの姿です。もちろんSも自分を変える努力が必要でした。それ以上に、周りが変わるべきことでした。

それは教師なども例外ではありません

 子どもを変えよう、保護者を変えようと取り組んでいる先生たちも例外ではなく、割と教師側が変わらないといけない場面があります。「生徒は、クラスはこうあるべき」みたいな狭い枠の中に子どもたちを入れ込もうとすると、その狭き枠に入れない子どもが置き去りにされたり、教師や学校に反発する姿をたくさん見てきました。

 生徒は「私のこと」をわかってほしいのに、生徒の話を聞いているようで聞いていない教師が一定数、いるように思います。それは「生徒に変化を求める」教師です。でも、生徒は「先生が変わること」を望んでいます。「こうあるべき」「この子にはこんな力があるのに」「普通、これくらいはできて当然」等々、さまざまなバイアスやフィルターで生徒を見てしまっているので、生徒の話を聞いている「つもり」になってしまっていることを自覚できていないパターンです。「私たちに変われと言ってくる先生が変わっていない・変わろうとしていない」と生徒が思っていたりするわけです。あえておさえておきますが、生徒も変わらないといけないことはたくさんあります。

 これら以外にも、さまざまな「自分が変わる」経験を積むことができてきた私は、経験に基づいて子どもたちを中心に発信しています。「勉強がわからないから、寝そべったり、立ち歩いたり、邪魔をするんじゃないのかな。こんなとき、周りにいる自分が、わからへんことあったら遠慮なく言うてなでもいいし、わかった?できた?とアウトリーチをかけることもできると伝えています。こんな友だち関係に、こんなクラスにしたいという目標や願いを実現するために、自分が変わる。

 他にも、中学時代、ヤンチャな先輩たちの行動によって自転車通学が禁止されていた校則を変えたこと、誰も歌わない校歌を流す理由を考え、歌うと決めた以上、大きな声で歌うことを実践させてもらいました。

 40歳を超えた私の当時の経験は、今にも生きることが多々あることを嬉しくも、また憂いつつも捉えています。

 ご覧いただき、ありがとうございました。

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