ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」7 マイノリティの経験に感動することには危うさがある

 私が人前で講演をするようになったのは、人権に関わる職に就いた18年前からで、現在、職場の業務として各所へ出向いています。講演をはじめて間もない頃には、多くの方々に、さまざまなアドバイスをいただきました。「導入はこうすればいい」「構成はこのようにしたほうがよい」「話には抑揚をつけるほうがよい」「起承転結を意識するように」などです。

 こうしていただいているアドバイスのなかに、「聞いてくれている人たちを感動させることが大切」「聞いている側に感動をさせて心に響かせないといけない」というものもありました。「なるほど」と思い、一時、そのフィニッシュをめざした時期もありましたが、それは早い段階でやめることになりました。

 理由は、講演を聞いていただいた方々からのアンケートや感想なるものを見た時に、私や家族の被差別体験の話などが、聞いてくれている人たちにとって「感動の対象として処理または消化されて終わっている」と思ったからです。「若い子が苦労を重ね、マイノリティである不利を抱えながら、差別などを努力で乗り越え、今、成功している姿に感動した」みたいな感じです。最初は、「聞いてくれている人たちに自分の思いが届いた」「感動してくれたので話をしてよかった」などと嬉しかったのですが、間もなく「これは対等には見られていない」など、違和感をもつようになりました。

 例えば、「〇〇時間テレビ」は、「障害」児者を取り上げ、山へ登ったり、長い距離の海を泳いだりしてゴールにたどり着いた人たちを感動の対象として取り上げます。もちろん、努力を重ね、ゴールまでたどり着いた本人や支援者を否定するつもりは一切ありません。

 私の違和感は、「障害」児者の社会参画や地域で「当たり前に」暮らせる状況等を阻害する差別や社会障壁などを撤廃・撤去する具体的な取組に何もつながらないということにあります。「感動」したとして、その後、「健常」者には当然のように与えられている恩恵が、「障害」があるだけで与えられていないという状態を変革し、障壁を撤廃しなければならないのに、感動するだけで何もしない。「障害」者差別解消運動に携わる関係者は、これを「感動ポルノ」と名付けました。

 結局、感動されるだけで、差別に対して何もしないということは、差別に加担する結果を招いてしまいます。マイノリティがマジョリティに近づこう、並ぼうとして努力を重ねる姿に、そうした努力をしなくてよい恩恵を受け続けているマジョリティが優越性をもって眺めている状態です。このことに気づいた時、とても嫌な気持ちになったこと、自分は何をしてきたのだろうという気持ちにもなったことを今でもはっきり覚えています。

 私自身の被差別体験や家族が向き合わされた・向き合わせされているマイクロアグレッションなどの社会問題が、マジョリティの感動の材料として処理や消化の対象にされて終わることをとても嫌だと感じるようになりました。これは、後にマイノリティへの「哀れみや同情」という、「無意識の排除である」ということを知ることになります。

 「感動で心が動くこと」は私自身もあり、それ自体を否定しているわけではなく、否定されることではありません。しかし、差別問題に関しては、その心の揺れが、差別解消への具体的な行動へとつながらないといけないということです。

 マイノリティの体験や生き様を「感動ポルノ」で終わらせてはならず、マジョリティは、マイノリティというだけで差別や不利が日常的にふりかかる社会構造の変革に取り組む必要があります。

 以前にも紹介しましたが、おすすめの書籍がありますので、再度紹介します。


 ご覧いただき、ありがとうございました。

2件のコメント

  1. 人前で「話をする・語る」立場に自ら改めて厳しく戒めることの大切さを痛感します。今回も100%納得です。とりわけ、「感動のポルノ」「マイノリティへの”哀れみや同情”という無意識の排除」という言葉と、「感動を行動に移すことが肝要である」という論旨に強く共感します。蛇足になりますが、このブログの魅力は「読後の清涼感」もその一つかと‥(笑)

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