ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」8 たいていの人が偏見や思い込みを持っている。アンコンシャス(無意識)バイアス(偏見や思い込み)

 私は、この社会は、「すべての人」に偏見や思い込み、決めつけを植え付けるように構造が機能し、社会意識がまだまだ蔓延状態なので、「誰もが」偏見や思い込みをもたされていると思っています。その偏見や思い込みは、やがて差別につながっていくという点で、誤解を恐れずに言うと「人は差別するもの」とも思っています。しかし、「それなら仕方がない」と諦めたり開き直るのではなく、だから「自分では気づけない無意識の偏見に自覚的になる努力」「マイノリティ等を差別しない努力」、そして「差別をなくす努力」が求められるということです。

 私たちがこの社会構造から浴びるさまざまな情報は、私たちに「無意識の偏見や思い込み、決めつけ」という「アンコンシャスバイアス」をもっています。私たちが何かを判断したり決定したりする時に、自分では気づかないうちに持つ・機能している、ものや人への見方や考え方、とらえ方のことを指します。

 例えば、私は人前で講演やゲストティーチャーとして授業をさせていただくことが多くある中で、「松村元樹」という名前と写真がチラシやホームページで紹介されていると、たいていの方は私のことを「男」「日本人」と判断されています。私が、まだ自分の性自認のことを話もしていないのにです。

たいていの人は、就学前で、すでに偏見や思い込みを持たされている①

 私には子どもが2人いて、上の子が4歳の時、私が自宅で仕事の関係者と電話をしていて、私が一人称を「わたし」と使うことに、子どもは違和感を持ったようで、電話を終えた途端、「パパ、男の子やのに、『わたし』って変」と言ってきました。

 また別の場面では、私と遊んでいた時、「パパは男の子やからお化粧したらあかんで」「後、ドレスも男の子やから着たらダメ」と言いました。ある時は、仕事関係で電話を終え切った直後、子どもが「パパ、男の子やのに何回も『わたし』って使うの変」と言ってきたり。この社会に溢れる情報は、このように就学前の子どもたちにすでに偏見を持たせる情報で溢れているということです。

 いわゆる男性が化粧をしたりドレスを着ている姿を子どもが見ると「変」と見たり、言葉を発し、その人を傷つけてしまうことが起こりうる、一人称はどのように呼んでもいいはずなのに、いわゆる男の子が「わたし」であったり、いわゆる女の子が「ぼく」「おれ」と呼ぶ姿を「変」と捉えて、その子たちが傷つく発言をしていたかもしれないと思うとゾッとしました。実際に、この一人称で悩まされたり、傷つけられた経験を持つ子どもたちと出会っているからでもあります。

たいていの人は、就学前で、すでに偏見や思い込みを持たされている②

 子どもが小学1年生の時、算数ドリルを買って、家で勉強させていました。子どもの隣に座り、ドリルを見ていた時、このような問題が出題されていました。

「子どもが10人いました。そのうち、女の子は4人です。男の子は何人ですか」

というものでした。

 子どもが進めている勉強を「ごめん、写真撮らせて」と待ってもらい、撮影してから、「どうぞ」と再開してもらいました。子どもは何の躊躇もなく、「10ー4=6 答え6人」と書きました。採点をする際、この問題には「三角」をつけました。すると、子どもは「何でよ?パパ間違ってる。絶対正解」と◯だと主張してきました。そこで私は「確かに6人かもしれないと思ったから、三角にした。それは、6人かもしれないし、5人かもしれないし、4人かもしれないし、3人かもしれないし、2人かもしれないし、1人かもしれないし、0人かもしれない」と言うと、「どういうこと?」と聞いてきました。そして「人の中には、自分のことを男の子や女の子と決めていない人、決められない人がいるから、この問題の内容だけでは、6人とは限らないと思って」と説明しました。すぐに理解できるものではありませんが、さまざまな場面で、この世の中には、少数の立場や条件を持つ人たちがいることを伝えています。

「思いやり駐車場」や「多目的トイレ」の利用者

 例えば、誰かと買い物などで出かけた先で、その店舗の駐車場には、三重県でいう「思いやり駐車場」があったとします。すると、そこへ一台の車が停まりました。車には、「障害」者が乗車していることなどを表すステッカーなどは貼っていませんでした。すると、停まった車の中から「元気そうな人」が出てきました。みなさんはどんな印象や思いを率直に持ちましたか?

 どこかへ出かけたとして、その先にある「多目的トイレ」から元気そうな人が出てきた場合、みなさんはどんな印象や思いを持ちますか?というような質問を画像を見てもらいながら、考えたり答えてもらったりします。子どもたちの中からは、「元気な人がその駐車場やトイレを使うのは、おかしい」「ムカつく」などの意見が出てきます。駐車場やトイレの利用者が本当に病気や障害などがない場合、その感情は間違いとは言い難いです。しかし、子どもたちの中から、「こんな人なのかも」と見た目ではわからない、内面的なものを何か持っている人ではないかという意見も出てきます。車にステッカーを貼っていないからといって障害がないとは限らないし、オストメイトをつけている人かもしれないという具体的なものが出てきます。これが学びです。

 私の家族にもオストメイトをつけて生活している人がいますが、外見ではわからず、仕事をしていて、とても元気です。しかし、時間帯などによっては多目的トイレを利用する必要が出てきます。

 実際に出会った小学生の例を挙げると、性自認は「女」で、数で言えば男子に多く見られる髪型や服装をしています。学校では、女子トイレを利用しています。この子が家族と出かけた時、トイレをしようと「女子トイレ」に入ろうとしたら、中から50代くらいの人が出てきたといいます。すると、その人は、この子に向かって「ここは女性用だから、あなたが入ってはだめ」と言ってきたので、「私、女です」と返しました。すると、そのおとなは「ややこしい格好しやんと、女の子らしくしたら。誰でも間違うわ」と言われたと話をしてくれました。この経験があって以降、この子は出先のトイレは「多目的」を利用しています。このようにして、瞬間的に思い込むことがあることを自覚することと、どんな人がいるのかを具体的に知っていくことで多様な視点を持つことができ、偏見や差別の除去にもつながっていくことを認識していくことにもなります。

職業や職種による思い込みや決めつけ

 職業や職種による思い込みや決めつけもあります。「白バイの巡査部長」「ボクシングの世界王者」「大型バスの運転手」「大工さん」「消防士」「パイロット」などの例を挙げと、人権について考える授業という時間でも「全員、男や」という答えが未だ多数派を占める状況にあるわけです。「女の人もいる」と答えてくれる生徒もいます。人数が少ないだけで、女性も働いていることを知っていたり、想像できたりした中で導き出されたものです。一方、なかには、「講師のこれまでの内容から、きっと裏がある。男と思ったけど、女やろ」みたいに思って「あえて」反対を選んだ場合があります。本来は、このようなアンテナが日常的に機能するようにならないといけないわけです。

 また、「いわゆる女性でした」と見せた上で、「何故、会ってもいないのに、この人たちを女性だと判断した人いますか?それは何故ですか」と問いかけます。世の中には、自分の性自認が男と女のどちらにもあてはまらない・決めていない・決まらないなどという「ノンバイナリー」な人たちがいるわけです。

 私が出会ったり、持たされてきたアンコンシャスバイアスの一例をあげると、

①血液型がB型であることを理由に、性格を想像された

②講演で話しかけてきた生徒の保護者が単身赴任をしていると聞いた場面で「父」を想像していた

③年齢が30歳以上だとわかった場合、結婚していて子どもがいると思われていた

④男のほうが運転がうまいと言われた

⑤連れ合いが妊娠している時、「男の子?女の子?」と聞かれた

⑥海外にルーツがあるだろう労働者を見た友人が「出稼ぎか一時的な滞在だろうな」とつぶやいた

⑦子どものことや家事は「女」がやるべきだ。

⑧子どもが病気になったりした時は、母親がそばにいてあげた方が良い

⑨色ペンを使うのは女子

⑩「日本人なら」など国籍で一括りにする言葉や表現

11 高齢者や女性は、コンピューターやインターネットは苦手

など、事例が山ほどあります。

 こうしたバイアスは、他人にのみ向かうだけではありません。「◯◯はこうあるべき」「こうだと恥ずかしい」「男は、女はこう」「これくらいの年齢になったら」「こうだとかわいそう」等々は「自分にも向かう」ことがあるからです。このような「つくられた社会意識」を無意識にも、意識的にも「内面化」すると、生きづらさを感じさせられ、本来、私たちが持っている個性や能力を発揮できなくなり、つくられた生き方を強要され、自分を小さくしてしまう・ごまかしてしまう・本来の姿を隠してしまうなどを招きます。

 アンコンシャスバイアス自体が差別ではありません。アンコンシャス(無意識)だから許されると思ってしまうのは違います。偏見によって傷つけられ、生きづらさを背負わされている人たちがいるからです。そして、バイアスは差別につながっていくことから、解消しなければならない社会問題です。

 アンコンシャスなので自発的に気づくことは、とても難しい問題です。植え付けられた偏見に気づく能動的・積極的な学びが必要になります。自分には、自分だけの責任以外のところで、すでに偏見や思い込みなどを植え付けられており、それは自分自身で見出していくのは容易ではありません。気づいていくために本を読んだり、視聴覚教材を見たり、インターネットにある有益なコンテンツを見るなどして、アップデートしていくことも大切だと思います。

 このような本が発刊されていますので、紹介します。


 ご覧いただき、ありがとうございました。

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