ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」48 就学前教育が子どもの人生を左右する?

 小学6年生の総合学習にゲストティーチャーとして招かれることが多い立場から、打ち合わせの際に、生徒さんたちの様子や生活状況、基礎学力の実態などを聞かせてもらいます。また、授業時に生徒が話の内容をどう受け止め、理解し、自分の暮らしや学校生活等とつなげて考えているか、授業後に綴られた内容等を拝見させていただくと、就学前教育がいかに重要であるかを痛感させられる場面や内容に必ず遭遇します。

 人権学習に基礎学力がとても重要になります。人権問題の捉え方で言えば、制度や慣習、構造的な問題であるということを理解し、課題を見出す、自分(たち)にできることを考え、行動するために必要なのは基礎学力という発想力・創造力・思考力・判断力・企画力です。

 絵本の読み聞かせが基本毎日行なわれている、保護者が文庫本や新聞などを読んでいるなど活字文化が定着している、ひらがなや文字、数字などに自然と触れられる環境が用意されている、保護者が大学卒業以上の最終学歴であるなどが、子どもたちの学力に与える影響も大きいとされています。

生活経験・社会経験の獲得は家庭の経済力が影響する

 「まぐれ」で生まれた家庭や保護者が、どれほどの経済力にあるかによって、当然ながら、生活経験や社会経験に影響を及ぼすことは言うまでもありません。生活経験で言えば、自然に触れ合う体験を意識的に行うこと、博物館や美術館、水族館や動物園などの文化的施設に行った経験などの社会経験の内容や量、家庭の経済力は、基礎学力獲得に重要なテーマであると言われています。

就学前教育における日本人特権

 私の子どもが通う園や小学校には海外にルーツのある保護者がおり、かつ日本語の理解度合いが十分でない方の場合、園や学校の図書館には日本語だけの本しかないため、子どもの日本語理解は早くても保護者が絵本や本の読み聞かせができない、それが子どもたちの語彙力や文章理解などの影響を与えていきます。

基礎学力の獲得を遠ざける非識字の影響は未だにある

 被差別部落にルーツのある家庭の中には、曾祖父母や祖父母が小学校では生徒のみならず教師からも露骨な差別言動を受け、小学2年生で学校に行けなくなった非識字の子どもたちが多く作られました。いわゆる解放令以降、部落の専売特許だった産業は大資本に奪われ、深刻な貧困が蔓延しました。幼い子どもたちも労働力や、保護者が労働しなければならないため、さらに幼いきょうだいの面倒を見ることが優先され、学校は二の次という生活状況にあったことも影響していきます。役所で申請書に必要事項を記載できない、銀行でお金を下ろすのに必要事項を用紙に記入できない、電車の切符を自動券売機で買えない、お釣りの計算ができず札を使用し小銭が貯まり、貯まった小銭を銀行で紙幣に替えて再び札で買い物をしなければならないなど、生活のあらゆる場面で苦難を強いられてきました。読めるはずのない手紙や広報は当然ながらスルーせざるを得ず、介護保険料を支払ってきたのに、必要な時に申請しなければならず、申請方法がわからない・文字の読み書きができないため、必要なのに申請できないなど、行政施策が部落の頭上を通過し続けてきました。このような暮らしが日常である中で、絵本を読み聞かせる、子どもに宿題を教える、学校から子どもが持ち帰ってきた手紙を読み、準備物を整える・用意することができないのは当然のことです。

 私の父は、実母を幼少期に病気で亡くしています。祖父は今でいうネグレクトや身体的虐待をする人であったことを聞きました。祖父もとっくに他界しており、私の父は、私が幼少期の時から「あんなん親父やない」と何度も教え込まれたので、何も聞けません。私の想像ですが、祖父はパートナーを失い、子育てや家事ができない人だったようなので、自暴自棄のような状態になりお酒に溺れ、子に暴力も振るうようになったのではないかと思っています。このような環境に置かれた父たちは親戚や近所の人たちに支えられ育つことができました。私が地域にアイデンティティを強く抱く理由の一つがこうした家族の体験です。

 そんな父たちを支えてくれた私にとって祖母のような存在であった「こまへおばあちゃん」は非識字者でした。そのことを知ったのは、識字学級が地元で始まり、学級の様子が隣保館で紹介されていた写真を見て、初めて知りました。そのおばあちゃんが文字を取り戻してきた中で、幼少期の経験を綴った内容の一部を紹介します。

 わたしは、いせのりょこうに行けませんでした。べんとうを持っていけなかったので、おひるは、はしの下のススキの中にかくれていました。わたしはよーいどんで走ったことは一度もありません。学校には、行ったり行かなんだりで、べんきょうはぜんぜんわかりませんでした。先生に「どういう字」と聞くと、先生はわたしの手を払いのけました。わたしのふうさいのせいだと思いました。ちこくするとけったりふんだりで、何もおしえてくれませんでした。ある日、ちこくして学校にいくと、一日たたされました。友だちがかえってしまいました。先生もいんでしまいました。日のくれ、おそうまでかえらないので、おかあさんがそのことをきいて学校に来てくれました。おかあさんはおこって「もう学校に行かんでええ」と言いました。わたしから文字をうばったのは先生です。

 今の保護者層に、これほどの生活経験の乏しい人や非識字の課題を抱えさせられている人たちは、私の友人・知人の中にはいないと思っていますが、私が認識できていないだけなのかもしれません。こうした非識字であったかつての暮らしによる文化が今も影響をなしている、それが保護者が本を読む、新聞を購読している、社会事象に関心がある、子どもに宿題を教えられるなどの文化が今なお定着しないという部落差別の現実が確かにあるわけです。

 非被差別部落特権で言えば、このように曾祖父母や祖父母の中に、差別によって文字を奪われた人たちがいないということも言えます。努力を積み重ねるスタートラインから大きな差がついていることは一目瞭然です。

 活字文化が定着していない、生活経験や社会経験が乏しい環境の家庭は、被差別部落に限りません。基礎学力の獲得のために乗り越えていくべき課題、定着していくべき課題の克服のために、就学前教育は、いかに保護者と関係をつくるか、いかに家庭に入り込むかだと思っています。

「できてない」のに「できている」という保護者

 できていないのに「できている」、大丈夫ではないのに「大丈夫」、やれていないのに「やっている」感を出してしまう保護者は少なくありません。でも、こうした保護者からの保育士に対する反応は、現時点における保育士と保護者との「距離間」です。子どもの担任をしてくれている、この先生にも弱みであったり、できていない・大丈夫でないと安心して言えないという距離間です。この距離間を縮めていかないことには、家庭や保護者の課題は見えてきませんし、見えたとしても、保護者や家庭と「連携」し、絵本の読み聞かせを定着していく、子どもの頑張りを肯定的に評価する、現在できる範囲での社会経験を積ませるといった具体的な家庭における取り組みは進んでいかないと思います。だから、私は園に対して、一人の子どもや家庭を視点に置いた1年間の実践をレポートにまとめ、保護者と、いつ、どんな場面で、何を、どんなやりとりをしたのかを「」を使って整理していくと、保護者と保育士が何で、どこでつながっているのかが見えてくると、以前のブログでも書きました。(こちらです)

 就学前は、子どもたちに社会を主体的に生きられる力をつけるために、とてつもなく重要な機会です。自己実現を阻むものは何なのかを把握する最初の砦でもあると思っています。偶然にも、そして差別の遠因などにより、不利な状況を背負わされた家庭に入り込み、保護者と伴走型で社会的自立に向けた基底を身につけることを目指していくことが不可欠です。

 ご覧いただき、ありがとうございました。

2件のコメント

  1. 改めて、就学前教育の重要性が分かります。今も頑張っておられるんですね!私も自分なりに努力を続けたいと思います。今後もよろしくおねがいします!

    1. コメント、ありがとうございます
      地元で就学前から大人になる子どもたちと、その保護者さんの関わりがあるだけに、とても大切な取組であることを教えられます。ともに取り組んでいきましょう❗️

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