ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」12(後編) 「わかりにくさ」がもたらす重大な被害

 前回に引き続き、無意識の日常的差別(マイクロアグレッション)について書きます。前回の内容はこちらです。

被害のメタファ(隠喩)

 私が以前、Facebookのアカウントで友人に、「マイクロアグレッションの被害をどのように表現されているか」「どのように説明しているのか」などを投げてみました。どうしても直面する「カタカナ語」への忌避感を和らげるために、何か工夫していることはないかも聞きたかったからです。わかりづらく反応しづらい被害への共通理解を得たいと考え、経験の有無に関わらず、被害が伝わってほしいと思い、投稿した内容にレスポンスしていただいた方々の例をいくつか紹介します。

・一つ一つは大した重さではないが、総体としては人を圧殺できる「数t分の鳥の羽毛」のようなもの

・しょっちゅう、蚊に刺され続け、痒みを伴う不快感が持続する状態

・高気温で高湿度の状態、じとっと濡れているような状態

・多くの汗をかいたのに、シャワーを浴びることができず、体がベタベタし続けている状態

・針でチクッと刺される状況が持続的に発生する状態

・差別(の手前)のトゲみたいなものが刺さる状態

・自分にとって大切なものがかくも容易く奪われるなどして、倦怠感に襲われる状態

被害の状態をどれも的確に表現された内容です。

 次に、被害者が置かれている状況について紹介します。

抗議の声を上げにくく、そもそも知識を得られる機会がない

 無意識の日常的差別を受けた側には、さまざまな被害や葛藤、悩みなどがつきまといます。まず、明確に怒りにくい場合が多いことです。それは露骨な偏見に基づく差別発言とは違い、相手に全くと言っていいほど悪意がないことが伝わることが挙げられます。悪意や差別の意図はない相手に、差別だと説明するには、労力や説得力ある説明を要するからです。説得力ある説明をするとなると、具体的な知識が必要になります。しかし、このマイクロアグレッションという言葉や概念は最近定着し始めたため、被差別当事者自身も学ぶ機会がなく、差別だという認識を持ちにくいため、相手に理解を得る自信を持つこともできません。

自分にも落ち度があるのでは

 マイクロアグレッションは、差別を受けた自身に対し、「自分が気にしすぎなのでは」「自分の被害者意識が強いのでは」と、自分にも落ち度があるのではないかと思わされることがあります。気にしてしまう自分にも問題があるのだと言い聞かせてしまうことになると、「何もなかったと思おう」となり、声を上げることをやめてしまうことがあります。素直に被害を受けたと捉えにくい点があります。

声を上げた先に何が待ち受けているのか

 差別を受けたと認識できたとして、そのことを相手に指摘するとなっても、相手は差別をしたとは微塵も思っておらず、マイクロアグレッションは「褒め言葉」にも含まれるので、簡単に理解を得られるものではありません。発言した相手に指摘した場合、「よくわからないが、この人はこんなことを気にする人なんだ」などと思われ、その相手から距離を置かれる、指摘した側から偏見で見られるなど、声を上げた際に、良いことが起きると想像しにくいので、声を上げるのをやめさせられてしまいます。

悩んでいるうちに事は過ぎる

 声をあげようか、でも自分に落ち度があるのではないか、でもわかってほしいなど、悩んでいるうちに時は過ぎ去り、声を上げるタイミングを失う、相手がすっかり忘れていて話が噛み合わない、噛み合わないだけでなく、何か濡れ衣を着せられていると思われ、関係がギクシャクしてしまう、理解を得られないどころか差別者だと指摘されたことに相手が憤慨し関係が断裂してしまうなどです。

 この反論や反応のしにくさが、マジョリティが日常的差別・無意識の差別に気付けず、問題が持続することにつながっています。よって、マイノリティは被害を受け続けます。同じ質問や態度を何度も同じ人物や違う人物から投げかけられ、同じことを回答し続けなければならない、同じ悩みを持たされ続けなければならないなど被害が蓄積していきます。やがて、気力や意欲が低下し、パフォーマンスが下がり、自身の力が発揮できなくなっていきます。

 コンビニエンスストアでアルバイトをしていたブラジルにルーツのある高校生は、「おねえちゃん、日本語上手やな」というお客さんからの質問をアルバイトを始めて3ヶ月で20回以上に及んだと話をしてくれました。そして、その度に「そうなんです」と客に不愉快な思いをさせてはならないと、つくり笑顔で対応してきましたが、ある時、「今日もバイト先で、同じことを言われるんだろうな」とアルバイトに行く気力を奪われはじめたと言っていました。もし、これで辞めることになると、この子はアルバイト代を生活費に入れていたので、生活が困窮するような結果をもたらすところでした。

 無意識の日常的差別の話をすると、必ず「そんなことを言われたら、しゃべれなくなる」という反応が返ってきます。本当にそうでしょうか。私は「そんなことはあり得ない」と思っています。

①マジョリティ性が多いことによって、この社会で「表現できる自由」を自動的に得られている恩恵に気づいていくことから始めましょう。言葉を奪われたり、表現することを萎縮させられる機会がない・少ないということです。

②次に、他者に問題意識を向けるのではなく、無意識の偏見をもっているかもしれない自分、無意識に他者を傷つけていた(かもしれない)自分に問題意識を向ける必要があります。無意識であっても、その言動で傷つく必要がいるということに対して、それを問われた側が、開き直るようなこと、あたかも被害者に責任を求めるようなことがあってはいけないと思います。

③そして、人を傷つけない言葉に置き換える・知識をアップデートするなどの努力を放棄してはな利ません。会合などの挨拶でこれまで使われてきた「足元の悪い中」は「天候不良の中」など、人体に関する表現を使わなくても良い言葉で溢れています。後は、家族や友人・知人をはじめ、初対面の人を「何らかのマイノリティ性を有している人」であることを前提にするということです。気を使うのではなく、マイノリティ性を有しているかもしれないことを日常にするということです。

モヤモヤ感は被害を受けたということ

 無意識の日常的差別(マイクロアグレッション)を受けた側の人たちについては、自分が他者からの言動によってモヤモヤしたり、傷ついたり、悩むことが生じたのなら、まずはその感情をそのまま受け止める・受け入れることです。考えすぎや気にしすぎではなく、素直に、その感情を認めていくことが大切です。あなたが悪いわけではありません。

 傷ついたということを知ってほしいと思ったのなら、その瞬間に反論や指摘をできなくても、自分のタイミングで「実はあの時のことなんだけど」と伝えてみることもできます。しかし、相手はそうした発言を行ったことを忘れている場合があり、「この人は気にする人なんだ」と思われるかも知れません。結果的に傷ついたことが本質的に解決されなくても、あなたに言わなくなることで、被害を持続させないことも大切ではないかと思います。そして、傷ついたあなたが解決すべき問題ではないということです。

 皆に通用するわけではありませんが、無意識の日常的差別(マイクロアグレッション)をしてきた側に、「それってどういう意味ですか・どういうことですか」と投げ返すことで、人によりますが、自分に指を向け「何か気に触ること、変なことを言ったのか」と考えてくれる人が出てきます。先ほどのような傷ついたということを返す方法が届かず、傷ついた側に意識を向けてくる人もいるので、万全な対策がないのが、また悩ましいところです。

 どう対応するかを被害を受けたマイノリティ側が選ばないといけないというパターンもあり、非常に理不尽なことだと思います。

 必要なのは万人が学び続けることです。能動的で積極的な学びが、何が差別にあたるのかを見出し、気づくことにつながります。そして、その気づきを他者にアウトプットすることで、気づきの輪が広がっていきます。

 ここで紹介している内容だけでは、無意識の日常的差別について十分説明できていません。ぜひこの本をお読みください。


 ご覧いただき、ありがとうございました。

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