前回に引き続き、「逆差別」について考えていこうと思います。前回の内容はこちらです。
被差別部落に見られる課題をも改善するための政策を
1958年、部落解放国策樹立を求める全国代表者会議の開催や、地方自治体などの努力の結果、1960年に同和対策審議会設置法が制定され、法律に基づく審議会のもとで、国の同和行政がどうあるべきかを議論することになりました。しかし、政府は一向に取り組みを進めてこなかったため、1961年に部落解放の国策樹立を求める全国大行進が敢行され、世論を喚起していきました。この運動には、運動関係者だけでなく地方自治体や労働組合なども参加していった国民運動でした。この運動においても、「被差別部落だけをよくしてほしい」というものではなく、「被差別部落に見られる課題をも改善するための事業」を求めていました。
内閣同和対策審議会答申
その運動の結果として、1965年8月11日に内閣は「同和対策審議会答申」を出すことになります。部落差別の解消は「国民的な課題」であり、「国の責務である」と明記されました。この答申は57年前のもので、状況は大きく変わりましたが、これは政府が「部落問題の解決を国策として取り組む」ことを初めて確認した歴史的な文書といえます。この答申は、同和問題を「現代社会においても、なお著しく基本的人権を侵害され」「もっとも深刻にして重大な社会問題である」と捉えています。そして、部落差別は日本社会で作られ、温存されてきたこと、早急に解決すべき社会悪であることも明らかにしています。運動の求めてきたかたちと違ったのは、国が予算を絞るために被差別部落に事業の対象を限定したことでした。国や自治体が「何故、特別対策を同和地区に限定し実施するのか」を丁寧に具体的に説明してこなかったことによって、「同和地区だけ良くなってずるい」「同和地区にだけ特別な施策を展開するのは不公平だ」という「逆差別」が生み出されてしまいました。
答申では、部落差別が客観的に存在していること、永久に未解決のものではなく、必ず解決するが自然になくなるものではないこと、「心理的差別」と「実態的差別」が相互に因果関係を保っていることなどを具体的に明記しました。
答申の「前文」では、
同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題であることが記され、さらに、その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題であると明記されています。また、部落差別は、差別する人の問題であること
を基本的な視点で示しています。
「第一部 同和問題の認識」では、
部落差別の本質として、同和問題を存続させ、支えている社会的・経済的・文化的根拠を明確にするとともに、部落問題は過去の問題であるとの捉え方を明確に批判しています。さらに、永久に解決できないという考え方や放置すれば解消する(寝た子を起こすな論)という考え方を批判しています。
「第二部 同和対策の経過」では、
それまでの同和行政の歩みを総括しています。
「第三部 同和対策の具体案」では、
環境改善、社会福祉、産業・職業、教育、人権の5項目について具体案を示しています。
「結語」では、
国や地方自治体が部落差別を解消するための行政(同和行政)を円滑に進められるように、「特別措置法」を制定する必要性を指摘しました。
この答申を踏まえ、1969年7月、同和対策事業特別措置法が制定されました。
同和問題の解決は、国の責任であり、国民的課題
不就学の子どもたちが多い地域、不就労の人たちが多い地域、生活保護の受給者が多い地域、不良住宅が多い地域、消防車すら入れない住環境である地域などが、全国の被差別部落に集中的に現れていました。例えば、全国や都府県、市区町村と被差別部落との「高校や大学への進学率」「就労率」「生活保護受給比率」を比べると、圧倒的に被差別部落の割合が低い状態に置かれていました。これは、住民の努力不足なのではなく、前述したような長年の歴史背景と国や政府による制度による構造の問題が現在にも影響を及ぼしている問題であることから、国の責任であることが認められ、国の責任を持って解決することが約束されました。
雨漏りは日常、住宅同士の間隔は隣同士でくっついているだけでなく、道路を挟んだ前の家と軒が重なり合うような状態、人がすれ違うのがやっとのような道路幅、消防自動車が入れず、火事が起きれば多くの家屋が全焼してしまった地域もありました。住宅の立地条件が川沿いであったり、低い土地につくられたため雨が降れば浸水し、共同トイレから汚物が溢れ出てくる、伝染病や感染症は瞬く間に地域に広がってしまうなど、極めて不衛生で劣悪な状態の地域の改善に取り組まれていきます。まず、自動車が走られるような道路を確保するために、当時の地域の面積では不可能であったため、周辺の自治会の土地を国や自治体が買収し、地域を広げる土地改良が行われていきます。
次に、倒壊寸前のような不良住宅を解消するために、同和対策の一環として、「改良住宅」という新たな公営住宅を建設し、国の住環境改善のために移住しなければならない人たちは持ち家から立ち退くかたちとなりました。立退になった人たちは持ち家を失いますが、改良住宅へ入居することになります。何故、家賃設定が低いのかは、国の制度とそれに紐付けされてきた構造により貧困状態に追いやられてきた人たちの生活基盤を安定するために国の責任として設定されたこと、改良住宅の入居者は、自ら望んで入居したのではなく、国の施策による立退で持ち家を失う中で、入居せざるを得なかったためです。入居者のすべてが納得して入居したわけではなく、移転資金は「雀の涙」ほどだったという声も少なくありませんでした。地域によっては改良住宅に玄関がなかったため、移転資金で玄関を自ら造らざるを得なかったところもありました。
「特別対策」としての同和対策と一般施策を活用した同和対策
それだけでなく、経済的な理由で学校に通えない、文字の読み書きができないので学校に行っても勉強がわからない、免許も取れない、読み書きを要する仕事には就けない、差別によって働きたくても就職差別を受けるなどで働けないなどの問題を解消するために、さまざまな取り組みが展開されるようになります。
まず、経済的な理由により高等学校や大学に進学できない世帯に対し、進学のための「貸与型」の奨学金制度が創設されました。この奨学金制度により飛躍的に被差別部落の子どもたちの高校進学率は上昇し、事業の後半にくらいになると都府県平均、市区町村平均の進学率とほぼ同様になっていきました。しかし、今でこそ取り組みにより、このようなことは限りなく少ないですが、当時は勉強についていけない、学校で差別的な発言を受けるなどにより、中途退学をする生徒が多く出てしまう状態でした。また、今なお差が見られると指摘されているのは大学進学率です。一定の所得基準が設けられ、基準以下の年収の世帯に対しては、返還が免除されるという制度です。
保育園などの利用料や保育用具の購入に関しても支払いが困難な世帯が多くつくられてしまったため、保育料の減免措置や保育用具の貸与といった施策が展開されてきました。
地方で就職するには自動車免許が不可欠です。その費用についても経済的に困難な状況の世帯が多くつくられてしまったため、国は自動車免許を取得するための費用負担に関する制度も創設しました。
他にも、差別や差別による貧困などで農地を持てなかった対策として、小集落営農に関する措置が講じられたり、さまざまな減免も実施されてきました。
特別措置法は、名前の通り、特別措置を講ずることを定めたものであるため、時限立法といって、必ず失効を迎えます。数回にわたる改正と延長の後、2002年 3月に終了となりました。ただし、国としての特別措置は終了となりましたが、今後は一般施策を通じて特別措置で解消できなかった課題の解決に取り組むこと、地方自治体は必要に応じて特別措置として展開してきた施策を自治体独自で継続実施することも自治体の判断によるものとなりました。
33年間にわたる特別対策の実施は、住環境改善、生活環境改善、福祉の向上、経営・就労環境改善、教育啓発事業など、国を挙げての取り組みとなり、大きな効果をもたらしました。
第2部はここまで。ご覧いただき、ありがとうございました。
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