「カミングアウト」と「アウティング」。さまざまな機会に、この言葉が登場するようになりました。最近では、性的マイノリティに関わるテーマの際に、よく使われていますが、部落問題や外国人問題、障害者問題だけでなく、外見的なことに関するコンプレックスや家族関係のことなどについても、カミングアウトやアウティングは用いられるため、古くからある概念です。
今回は、カミングアウトについて、解説してみたり、それが行われる理由を考えたり、どんな問題が起きているか、どう対応すればよいかなどを議論し合ったりする時などに、使っていただければと思います。
では「カミングアウト」とは、何なのか、それは、
「これまで秘密にしていたこと、秘密にさせられてきたことを誰かに打ち明けること」
だと理解しています。
あるマイノリティ性や、コンプレックスや悩み事を他者に知られてしまうことで差別的な扱い、冷やかしやからかいを受けたこと、あるいは受ける可能性があることへの不安や心配があること、「これはよいが、これはだめ」といった外見的要素などを含む社会意識を内面化させられていることなどを理由に、知られたくないこと、隠しておきたいこと・おかねばならないことが生じてきたりします。
私自身で言えば、幼少期、顔のほくろに関して、揶揄されることが親戚や近所の人、地域の大人、同級生、先輩などからあったので、コンプレックスにさせられました。「ほくろ」というワードに、結構複雑な気持ちにさせられた時期もありました。ただ、これに関しては、概ね周りにいる人たちは「嫌な思いをしたことがあるだろうな」「あんなことを言われて嫌だろうな」みたいなことを感じ取ってもらいやすく、交わし方を早い段階で身につけてきたことや、よほどの揶揄でない限り、気にならなくなりました。
このこと以上に悩んでいたのは「身長」です。小さい時から体が大きく、
・「ウドの大木」と揶揄されたりしてきたこと
・体が大きい有名人などの名前であだ名をつくられ言われたりしてきたこと
・学校では「身長順」で行動することが多く、必ず「先頭」か「最後尾」にならばされたこと
・休み時間に球技で遊んでも、習い事のサッカーをしている時も、「体が大きい」を理由にポジションが勝手に決められてしまうこと
・体が大きいので、気持ちが広くて、すぐに怒らないなどイメージを持たれてしまうこと
・体が大きいことを理由に、いじけたり泣いたりすると、すぐさま「そんなお大きいナリしているのに」と言われること
等々、こちらの方が嫌だった経験があります。今では、そんなことを悩むことはなくなりましたが、「身長が高い、男」につきまとうイメージに、合わせることの辛さみたいなものが、私にコンプレックスを持たせていきました。
なので、「身長が高くていいなあ」みたいな言葉が結構嫌で、でもコンプレックスがあると知られると、弱みを握られてしまうように感じて、誰かとトラブルになった時、身長のことで傷つけられるのでは、そのことを理由にいじめを受けるようなことになるかもと思うと、「秘密」を持たざるを得ませんでした。
再度、整理すると、
マジョリティによるマイノリティへの権力構造・抑圧構造があり、それにともなう差別があり、特定の条件に対してコンプレックスを持たせる社会意識が存在することによって、尊厳や権利が侵害されるなどの被害を受けることへの回避などを理由に「秘密を持たされる」
ということではないかと思います。
日常生活の中で「秘密にしておきたいこと」を背負い続ける状態について、無理して言わなければ、大きな負担にならないということもありますが、それが重荷に感じる人もいます。私の感覚では、これまで出会ってきた子どもたちや大人の中では、後者の方が多いと思っています。
差別を受けるなどを理由に、「知られたくないことがある」「秘密にしておかなければならないことがある」というのは基本的に重荷です。秘密にしていることに関わる話題などが出てきた時、
・秘密にしていることを知られた場合、どのように取り扱われるかに不安を感じる。
・差別的に取り扱われ方によっては傷つけられてしまう、傷つけらたことに誰も気づかないという多重の被害を受ける。
・自分のようなマイノリティ性を有する人がこの場にいない存在という扱いを受ける。
等々、まだまだ理由はありますが、「傷ついているんだ」「自分がそうなんだ」と知ってほしいなどの思いから「カミングアウト」をするかどうかを悩まされます。カミングアウトによって、身近にいる人たちが考え方を変えてくれるかもしれないという期待と、差別的な扱いを受けることへの不安を錯綜させられます。
私の場合、まず「接触する人と、より親密な関係を築きたい」「本来の自分のことを知ってほしい」という願いがあります。相手は受け止めてくれるという不安が入り混じる「期待感」があり、信頼をしている・したいということもあります。「自分が変わりたい」、「相手に変わってほしい」ということも。
また、身近な人に「嘘をついている」ということへの罪悪感がなくなるからという場合もあります。相手を信用していない・信頼していないということではないけど、カミングアウトした場合、友だちが離れていくのではないか、家族に受け入れてもらえないのではないかなど、悩みに悩まされることがあります。自分に嘘をつきたくない、まわりに嘘をつきたくない、そんな思いからカミングアウトをする人もいます。
葛藤や不安、信頼や期待、多重で複合的で中長期的に抱かされてきたものを「カミングアウト」した時に、それを裏切る行為が起きてしまえば、カミングアウトした側のダメージは計り知れないものとなります。
「アウティング」という本人の同意なく、他者にカミングアウトしてきた人の秘密を漏らす、広げるという行為は極めて深刻です。詳しくは別の機会に掲載します。
カミングアウトしてきた相手に差別的な取り扱いをする、本人の同意なく他者に伝える、マイノリティであるというカミングアウトを受けて結婚や交際を反対する・破断になるものまで。
カミングアウトした側が受ける被害の中で最も多いのは、「気にしない」「関係ない」と言われるものではないかと思います。一見、よさそうなこの返しの何が問題なのでしょうか。
カミングアウトは、葛藤や不安を抱えながら、人によっては、長い時間をかけ、疎外感を抱かされたり、傷ついたり、苦悩してきたなかで、理解者を探し続けてきたなかで、ようやく見つけた相手に、わかってくれそうと思える相手に出会えたなかで行われます。自分の本当の姿を知ってほしい、ともにマイノリティが生きづらい思いをする社会を変える側になってほしいなど、さまざまな理由によって行われることを前述しました。その思いや経緯などに対して「気にしない」「関係ない」は、思いを馳せられているかというと、そうではないことがわかります。これ以上、あなたのことを知らなくてもよいというメッセージ、深く考えるつもりはないというメッセージにもなります。
カミングアウトを受ける側は、たいてい「突然」です。しかし、カミングアウトした側にとっては急に思いついてしたわけではないということです。
カミングアウトを受けたとして、何もかもがわかるわけではありません。カミングアウトに至るまでに、どのような出来事があったのか、いつ自認し自覚をもったのか、その時どう思ったのか、他に誰が知っているのか等々、わからないことだらけです。
「気にしない」のではなく、そうしたことを総合的に踏まえて「気にする」ようになること、「関係ない」ではなく、カミングアウトをしてきたこと、カミングアウトをしなければならないこと、あなたも一緒に考えてほしいという「関係のあること」として受け止めてほしいと思います。
まず目指すべきは、カミングアウトするものを持たされた人たちが、カミングアウトしたい時に、カミングアウトしたいことを、カミングアウトしたい人や場所で、カミングアウトできる空間、社会をつくることです。
その社会を目指すための努力を積み上げながら、完成すべき社会のあり方は、カミングアウトしなくてよいことを、カミングアウトしなくてよい社会をつくることだと思います。異性愛者やシスジェンダー、被差別部落にルーツのない人、健常者が自身のマジョリティ性をカミングアウトする必要がない状態ということです。
カミングアウトしなくてよい側が、率先して目指す社会をつくるための行動を積み重ねる必要があります。
このような本がありますので紹介します。
ご覧いただき、ありがとうございました。
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