ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」90 「今住んでいる自治体は、学校や行政が同和問題に取組すぎではないか」に、自分ならこう返す!

 「今住んでいる自治体は、学校や行政が同和問題に取組すぎではないか」、このような意見に毎年、見聞きします。「取組すぎ」ということは、何らかの基準があり、その基準を「標準」とした上で主張されているものです。幼少期に育った地域で「年に1回程度」あるいは「ほとんど取り組まれていない」状態を「標準」とした場合、それ以上多いのは「取組すぎ」ということになるのでしょうか。今の取組状況で、十分に差別被害を発生させない社会の状態は確立されているのでしょうか。果たしてそこまで「負担」となるほどに、年に何回も何十回も参加しなければならないような状態にあるのでしょうか。「取組すぎ」という意見が、マイノリティにどのような影響を与えているかが考慮されておらず、「アグレッション(攻撃)」であることは否めません。

 この「取組すぎ」という意見を解体していきます。

今も差別があり被害が生じているのに「取組すぎ」とはどういうことか

 これから理論的で明確なエビデンスをもとに書いていこうと思いますが、「取組すぎ」という意見への、最も的確な返しは「今も差別がある」ということです。権利を侵害され、一生の傷を負わされる問題が起きているのに「取組すぎ」とは、どのような意味をもつのでしょうか。この程度のことは、小難しいことを並べなくてもわかりそうなものですが、そうでもないのが現実です。

 一生のパートナーとして決めた相手との結婚を差別によって破断に追いやられた人たち、今まさにその差別に向き合わされている若者、結婚差別によって出身地を口外しないこと・苗字を変えることをせまられた人たち、目の前で繰り広げられる部落問題解消の取組を全否定される意見など、深刻な現実があるのに対し、「取組すぎ」とはどのようなエビデンスをもとに主張されているのでしょうか。今も解決できていないのは、「誰の」責任なのでしょうか。その解決できない問題によって、人生そのものに被害を受けた人たちが今もいる、そして意識調査結果や差別事象などで明らかなように、今後も起こりうるリスクのある問題を早急に解決しようと積極的に取り組むことに対し「取組すぎ」とは、どのような意味をもつのでしょうか。

 「取組すぎ」ということで、仮に今よりも取組の量を減らしたとして、差別被害のリスクは取組の量の減少によって高まる可能性のほうが高いと容易に想像できますが、その責任は誰がとるのでしょうか。

「あるべからざる差別の長き歴史の終止符が一日もすみやかに実現されるよう万全の処置をとる」と謳った答申

 ケガレを祓う役割を担った「キヨメ」が慣習や観念として差別を受けてきたなか、江戸時代の封建制度が部落差別を制度的差別として強化され、構造的差別としても機能してきました。

 明治の太政官布告によって制度的差別は解消されたものの、国や政府は何ら取組を展開せず、身分の解体後は大手や資本家などがかつての賎民身分の人たちが従事していた仕事に就けなくなり、事実上奪われるかたちとなっていきます。もともと基盤の脆弱だった被差別部落や住民たちの生活レベルは急激に後退し、スラム化していきました。

 国や政府等において全く取組が行われなかったことによって、差別と差別による構造の影響を受け、貧困化・スラム化していく実態に、ついに当事者がたちあがり、1922年の全国水平社が創立されました。その後、融和事業は展開されてきたものの、相変わらず行政施策は被差別部落の上を素通りするように、住民の生活基盤の向上や改善とは程遠い状態が続きました。

 戦時中に水平社は解体されましたが、戦後、再び部落解放運動は再稼働してきたことで、国や政府が部落差別をつくりあげ、放置してきた責任を認め、1965年に内閣同和対策審議会答申(以下「同対審答申」という)が出され、1969年に国策として地域改善や住民の生活基盤の安定と向上、部落差別の解消をめざす施策がスタートしていきました。

 事業が展開されると、事業実施のために被差別部落へ行政職員が入り、住民と協議や検討を重ねていくなかで、住環境の劣悪さや住民の生活基盤の脆弱性(働けない住民、学校にいけない子どもたち、文字の書けない人々、不衛生な環境)など「目で見える差別の実態」とし、改善すべき差別の現実を直視することになります。また、住民がこれまで深刻な差別被害を受けたきたこと、それは現在においても発生していること、それら差別からの解放を願う思いに触れることで、国や地方公共団体の重要施策として、同対審答申が打ち出したように「一日も早く解消すべき社会悪」を実感することになっていきます。

 それは一市職員としてだけでなく、一市民として、差別を解消するために強い思いをもたれるなかで、問題解決に取り組まれてきました。そうした現実を直視し、一刻も早く解消すべきと取り組んでいる側と、現実を直視せず、ただただ「負担」と捉え、「他人事」と捉え、問題解決への取組や行動を起こさず、差別を受けている側に差別解消の責任を課し続けているのは重大な問題です。「取組すぎ」と否定できるほど、何かに取り組んでいるのかということが問われます。これは部落問題に限らず、さまざまな問題に関しても言えます。

 1965年に出された内閣同和対策審議会答申(以下「同対審答申」という)では、前文で、

「同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である。したがって、審議会はこれを未解決に放置することは断じて許されないことであり、その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題であるとの認識に立って対策の探求に努力した」「本答申の報告を尊重し、有効適切な施策を実施して、問題を抜本的に解決し、恥ずべき社会悪を払拭して、あるべからざる差別の長き歴史の終止符が一日もすみやかに実現されるよう万全の処置をとられることを要望し期待する」

とされています。一日もはやく解消しなければならない、これが政府の公式見解です。いたずらに差別の解消を遅滞させてはならないということです。

 同時に、1996年の「同和問題の早期解決に向けた今後の方策の基本的な在り方について(意見具申)(「地対協意見具申」という)」では、

同対審答申は、同和問題の解決は国の責務であると同時に国民的課題であると指摘している。その精神を踏まえて、今後とも、国や地方公共団体はもとより、国民の一人一人が同和問題の解決に向けて主体的に努力していかなければならない。そのためには、基本的人権を保障された国民一人一人が、自分自身の課題として、同和問題を人権問題という本質から捉え、解決に向けて努力する必要がある。

本報告に盛り込まれた施策を実現していくため、法的措置の必要性を含め各般の措置について具体的に検討し、これに基づいて、国及び地方公共団体は、基本的人権の尊重と同和問題の一日も早い解決をうたった同対審答申の精神とこれまでの成果を踏まえつつ、それぞれがその責務を自覚し、今後とも一致協力して、これらの課題の解決に向けて積極的に取り組んでいく必要がある。

答申がなされてから既に30年余り経過しているが、同和問題の早期解決に向けて、この答申の趣旨を今後とも受け継いでいかなければならない。

 同対審答申は、「部落差別が現存するかぎりこの行政は積極的に推進されなければならない」と指摘しており、特別対策の終了、すなわち一般対策への移行が、同和問題の早期解決を目指す取組みの放棄を意味するものでないことは言うまでもない。一般対策移行後は、従来にも増して、行政が基本的人権の尊重という目標をしっかりと見据え、一部に立ち遅れのあることも視野に入れながら、地域の状況や事業の必要性の的確な把握に努め、真摯に施策を実施していく主体的な姿勢が求められる。

1)差別意識の解消に向けた教育及び啓発の推進

2)人権侵害による被害の救済等の対応の充実強化

3)地域改善対策特定事業の一般対策への円滑な移行

4)今後の施策の適正な推進

としており、これも政府の公式見解です。

 深刻な部落差別が今も現存していることは、部落差別解消推進法が第1条で指摘してる「現在もなお部落差別が存在している」と公的に認知されています。明日にでも解消せよという政府の公式見解に基づくと「取組すぎ」という主張は大きく的をはずした主張となります。こうした際の「取組すぎ」パターンは、差別の現実を「私は部落差別を見ないし、聞かない。だからないのでは」などの「個人的な実感」で判断している可能性も高いことがうかがえます。この意見の誤りについてはこちらで指摘しました。

 「取組すぎ」を主張する人が、差別をなくすために何か行動をしているかというと、そうでもないのが特徴の一つです。次に、「私には偏見がない、私は差別をしていない」と本気で信じているというのも特徴です。差別に対して何もしなければ、どのような結果を招くのかについての知識や理解、課題意識が圧倒的に不足している特徴もあります。何もしなければ差別は社会構造の問題であり、制度や慣習・慣行といった問題であるため、差別を維持させる、結果として差別を容認するということをわかっていないという点もあります。ジャニーズ事務所によるタレント等への性暴力の問題も、「(性暴力が)あるにも関わらず、何もしないから被害が広がった」「何もしないことで、被害者の声をねじ伏せる構造に加担し、容認してきた」わけですが、このような性質をもつということが、部落差別などの問題とつながっていない・つなげることができていないという特徴もあります。

 究極は、差別を受けている・受けるリスクを負わされているマイノリティに問題解決の責任を課す結果となる意見であることを認識できていません。今ある差別に「取組すぎ」とマジョリティが主張するわけですから、解決への取組を後退させることになります。誰が差別の不当性に声をあげるのか・あげさせられるのか、この意見そのものが明らかにマイノリティに被害を与え、差別解消の責任を負わせ、それは差別を受けるリスクを高めているということを、ほぼ理解されていません。

 研修会や講演会に参加したりするだけでは、差別に加担しない、差別を容認しない、無意識の差別をしない状態が確立されません。社会構造、制度や慣習・慣行として機能し続ける差別を差別と捉えるためそれだけ複雑で多様な状況にあること、無意識の偏見や日常的差別は容易に自身のなかから解消されるものではありません。研修や講演会など以外でも、人権関連の書籍を読むこと、視聴覚教材を視聴すること、有益なネット上のコンテンツを閲覧することができます。しかし、多くの場合、そこまでする必要性を感じれるほどの課題意識をもてていないため、ほんのわずかな時間をそうしたことに費やすことがありません。

 約20年、この仕事をしてきた側として、全国および県内自治体の人権法令に関する取組状況を見ると、被差別部落を有さない、運動のない・弱いエリアほど、差別解消に関する施策がぜい弱で法令の周知を庁内ですらできておらず、責務規定に基づいた取組を展開できていません。「地域の実情に応じて」という法律の条文は、市内の差別や人権侵害を取り巻く現状に即した施策展開を規定している。取組の弱いエリアは差別や人権侵害に係わる問題がない・少ないのかというと、そうは言いきれません。

 エビデンスとして市民はおろか、自治体職員の人権意識をはかる調査等すら実施されておらず、マイノリティの被害実態を把握する取組は皆無であるため、そもそも「地域の実情」が把握できていません。「もっと取り組まなければならないという根拠となる被害が調査などで明らかになった」ということは、調査に取り組む自治体によって明らかです。国や地方公共団体などに事象などで報告や相談があがっていない被害の例が調査で明確になっているということです。「取組すぎ」と言えるほど、「見ないし聞かなくなった」ではなく、被害がなくなったのかどうかを推し量る実態調査などの取組がほとんど実施されていません。国や政府、地方自治体は、声の上がらない被害を積極的に把握しにいく取組を展開することが求められています。

 ご覧いただき、ありがとうございました。

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