ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」17 突きつけられる「わたし」の特権② 「うちの子は、きっと友だちの結婚式にも呼ばれへんやろな」「先生、俺、差別受けんの怖いねん」

 自分にはないマイノリティ性を有し、そのマイノリティ性によって生活のさまざまな場面で不利や困難を強いられる人たちから語られる実体験に、自分自身のマジョリティ性と特権を突きつけられています。特に、中学生時代から、マイノリティからの問題提起を受けてきましたが、特権について学んでからは、マイノリティに及ぶ不利が自分自身とどうつながっているのか、重なっているのか、その受け止め方が大きく変わったと思っています。

 前回の内容はこちらです。

 ①で紹介した子どもが自閉症の保護者さんの話以外にも、別の保護者からも次のような語りがありました。

「私は、うちの子は結婚できないと思っているし、支援学級に在籍してて、通常学級の友だちとの距離を感じる。高校からはきっと支援学校に行くことになると思うし。つい先日、障害者の結婚みたいな話を聞いた時、うちの子はきっと友だちの結婚式にも呼ばれへんやろな」

 人の結婚式に呼ばれない、微塵も不安がよぎったことすらありませんでした。

 この話を受けて、自分の特権について考えていた時、私の同級生にも支援学級生がいて、国語と算数の時間になると別教室であったことを思い出しました。

 私が中学3年生になり、進路について本格的に考え始める時期になった時、当時の担任だったN先生は、この支援学級に在籍していた友だちの進路について悩んでいました。その悩みは、この子もこの子の保護者も、支援学校ではない学校に進学するという意向に対して、その実現が難しいということを本人や保護者にどう伝えればよいかというものでした。

 N先生は意を決し、家庭訪問をして保護者に「この子が志望校に行くことは難しいと思います」と伝え、保護者は非常に残念そうにしていた姿を後に学校に戻りました。そして報告してきたことを校長先生に報告しました。この校長先生は、「同和教育の神様」と呼ぶ人もいて、私が小学校の時も校長をされ、中学校でも校長で、私の卒業とともに退職となった方です。靴底をすり減らす同和教育というのは、この人から作られた言葉ではないかという人です。普段は温厚ですが、今でもスイッチが入ると、とても深く豊かで鋭く物事を見定め的確な指摘をしてくれる人です。現在、86歳で、今も部落差別をなくすこと、すべての子どもたちの豊かな未来をつくるために、突然登場する、それが例え圏外でもという人です。

 話を戻して、N先生が家庭訪問で話をした報告を受けた、普段は温厚で怒ったところ見せたことがない校長先生がN先生の後にも先にも、「怖い」と思ったのは、この時だけだと教えてくれました。校長先生は、目を見開き、目線は上を見ながら、少し時間を置いた後、強い怒りのこもった静かな言葉が投げかけられます。

「僕ら教師の仕事は、子どもや親の願いを叶えることやと思うんやけど、そんな簡単に奪ってええにゃろか」「なんとしても叶えてあげたいと、限られたできることに全力を注ぐものやと思うんやけど、違うのやろか」。

 N先生は、この言葉に涙を流したと言われました。すぐに家庭訪問し、「前言を撤回させてください。必ず入学させます」と保護者と本人に謝罪と決意を述べました。結果は入学。その後、成人式や同級生との飲み会の場でも再会しています。自分が中学生の時、こんなストーリーがあったことを知ったのは、今の仕事についてからです。この時、すでに特権を突きつけられていながら、気づくことができていませんでした。

 中学時代には、他にも特権を突きつけられていた出来事があります。

 一つ年上の先輩に、小学生の時から「やんちゃ」で、暴言があったり、人と喧嘩したりして、私にとって少し怖いと思う人がいました。毎日そうではありませんが、何か言葉をかけづらくて、機嫌の良い時は優しいのですが、いつも何かに不安を感じているような印象を受けていました。

 中学校へ進学すると、その先輩のヤンチャさは、小学校の時よりも進んでいるように感じていて、気を使う人であることに変わりはありませんでした。私が2年生になり、先輩が3年生。先輩は野球部で私は違うのですが、同級生が先輩に高圧的な態度をとったり、不愉快になるような言動に及んだりして、部活の空気感が良くないことは、サッカー部の私でも察していて、私の同級生が傷つけられて泣いている姿を見たこともありました。

 「なぜ、この先輩は高圧的な態度をとるのだろう」「なぜ、他者を寄せ付けないような姿を見せるのだろう」、詳しく知ろうとすることもなく、一定の距離を置き、私自身が傷つけられたりしないようにしていたことを覚えています。

 先輩たちの学年で、授業中にうるさくて集中できない、一生懸命やろうとしている行事にチャチャを入れて来られることに我慢ができなくなった生徒が、この「ヤンチャ」な先輩に迫るという場面があったようです。自分達がどれだけ我慢しているか、進学に向けて大切な時に妨害されたくない、高圧的な態度をやめてほしいなどの声が上がり始めました。「ヤンチャ」な先輩は、その場合に居づらくなり、最初は暴言を吐いたと聞いています。

 その後、先生が「ヤンチャ」な先輩の家に何度も行き、たくさん話をしました。保護者とも、学校での様子のこと、先生が気になっている姿などを伝えていきました。ある日、この先輩が先生に、

「俺、在日やねん。韓国の名前がある」「先生、俺、差別受けんの怖いねん」

と打ち明けました。そして、人から傷つけられることへの不安から、先に防御線を張るように、先に人を傷つける側にまわり、「強いと見られる自分」を演じ続けていたと言うことでした。先輩たちの中に、私が知る限り、海外にルーツがあるのは、この先輩一人で、そのルーツが韓国にあることで、先輩の家族や親戚が被ってきた差別のことを聞いた先輩は同じ目に遭うことに強い不安を持ち始めた、でもそのことを共有できる人が周りは全て日本人なのでいないと言う孤独感・孤立感を持ちづづけてきたということでした。

 私は、被差別部落にルーツがあるというマイノリティ性を有していますが、コミュニティがあり、同級生だけでなく、上級生や下級生、近所の人たち、保護者と繋がる地域の人たち、先生や行政職員など、暖かく支えられ、存在していていいんだみたいな空気感がある中で育ちました。同じ地区の同級生は10人いるし、先輩も後輩もいる。なので、孤独感や孤立感を持ったのは、高校以降でした。

 しかし、この先輩には、私にあったコミュニティがなく、先輩や後輩に「同じ」人がいない。先輩から見えるまわりは「自分とは違うもの」に見えていたこと、「つながれないもの」と思わされてきたということでした。

 先輩を怖いという外見的なことだけで避けてきた自分をとても恥じました。先輩の孤独感や孤立感、不安感に思いを馳せることが全くできていませんでした。

 先輩は、学校で自分のルーツのことや名前のことなどをカミングアウトしました。ヤンチャな先輩に対して「ヤンチャである」というフィルターでしか見ていなかったこと、それだけでなく先輩が「勝手に不安を抱いた」のではなく、マイノリティ性を有する人の中に、先輩のように日本人という属性に関しては、孤独感を持たなくてもよいものを持てないようにさせられている人たちがいるということなどを語り合え、お互いの「本当の姿」でつながれた実践のことを知りました。先輩のことを大嫌いだった地域の先輩が「あの子、ええやつやったわ」と言っていたのは今でも覚えています。今から2年前、この先輩の子どもがいる学校で、この子のいる学年に話をしに行ったのは感慨深かったです。

 このような本がありますでの、紹介します。


 ご覧いただき、ありがとうございました。

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