ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」104 「相手の気持ちを考える・想像することが大切」が、子どもたちの思考を停止させ、仲間づくりを遠ざけ、マイクロアグレッションを維持させている?

 私が仕事等で行かせてもらったことのある県内外の小中学校では、子どもたちが「くらし」でつながること、伝えたいことを伝えたい時に伝え合える関係や環境づくりが大切にされています。思い込みや憶測ではなく、子どもたちのくらし、子どもたちがどんなことを家族や先生、クラスメイトなどに知ってほしいのか、その「事実」を掴み取り、そのくらしや伝えたいことなどの「事実」でつながる集団づくりが展開されてきています。

 そんななか、例えば、ある子がある子を傷つけることが起きた際、先生から「相手の気持ちをもっと考えよう」的な声掛けや「指導(あまり好んで使いません)」が行われることがあり、こうした場面に限らず、「相手の気持ちを考える・想像することの大切さ」が伝えられることがあります。私は、このことを大切であると思いつつも、小学生の時から違和感や疑問を持っていました。高身長であった私に幼少の時から向けられてきた「好意的ルッキズム」に、私はモヤモヤ感を持ち続けてきました。しかし、高身長の男子が、その身長に関してコンプレックスを抱いていることなど、当時の同級生は「誰も」考えや想像がおよんでいませんでした。善意であっても、マイクロアグレッションが起こるため、「考える・想像する」だけでは不十分になるのは、むしろ当然だと思っています。

 決して、この「相手の気持ちを考える」を全否定するわけではありませんが、先ほど書いた「事実の蓄え」という点では、この「相手の気持ちの想像」は、かえって「事実の蓄え」を遠ざけることが起きていると捉えています。

 家族でさえも、家族の誰かが何をどう思い生活しているのかについて、互いの気持ちを想像することができたとしても、本当のところはどうなのかは、家族同士がお互いに、その場面で感じたこと、日ごろから伝えたいことを言わないと・言い合える関係でないと、他の家族に、その「事実」の伝わりようがありません。ともに過ごす時間が長いからこそ、赤の他人と比べれば、想像が「当たる」確率は高いでしょうが、事実とは限りません。繰り返しですが、誰かの心情を誰かが「考えたり想像したりする」ことができても、それが本当に「正解なのかどうか」は、わからないはずです。

 先生が生徒に指導する場面で、生徒が「わかりました」と言ったから、総合の時間などの感想なるものに、生徒が「相手の気持ちを考えることが大切だと思いました」と書いたから、それで終わりにしてはいけないと思っています。こうした場合、たいていの生徒は、「相手のことを想像できている・理解できている・考えられている」という「勘違い」「事実誤認」みたいなことを起こしてしまう可能性が大いにあるからです。そして、これは「偏った見方」「思い込みや決めつけ」を生み出し、維持しかねず、結果、ますます自分の伝えたいことを伝えられていない生徒に、伝えられない環境や関係を維持していくと思っています。周りの子は、自分のことをわかったつもりになっていて、周りの子が「あの子はこういう子」と決めつけ、キャラクター設定をしてくる、不安だから本当の自分を隠したり、ごまかしたりしている。本当はこうじゃないと、自分自身のそのままを見せると、周りに驚かれたり、引かれたり、距離をとられたり、陰で何かを言われたりするのではないかと不安に思う。それは避けたいから、周りが設定するキャラクターとして、着ぐるみを着るように、仮面をつけるように、伝えたいことを隠す・ごまかすことを強いられている子どもたちと、たくさん出会ってきました。互いに伝えたいこと、知ってほしいことは、伝えたいなと思った時に、伝えたいことを、伝えられる力が必要だし、何よりも、それを可能する関係性や環境が必要になります。

 この「相手の気持ちを考えよう」という抽象的アプローチは、マイクロアグレッションを生み出し、マイクロアグレッションを維持し、被害を発生させ続ける状況を招く危険性があると思っています。

 たいていの人は、人権問題や差別問題に関する的確な学びを経験できないと、学びを経験してきた人や能動的にアップデートしている人と比べて、マイクロアグレッションなどを生じさせるリスクが高いのは間違いありません。例えば、男性の高身長はよい、女性はスリムで色白、目が大きく、二重でパッチリ、鼻が高いのがよいというような社会意識は今も存在しています。高身長の男性に対し、「いいなあ」「うらやましい」「大きい」「身長が高い」「何かスポーツをしていましたか」「その体系ならモテたでしょう」的なことを向ける人は、まだまだ少なくありません。「相手は、そう言われて喜んでいる」「ほめているのだから悪い気になることなどあり得ない」などは一切思うことなく、それが当たり前のようにして向けられています。私がそうでしたし、今もないことはありません。私は幼少の時、父や周りのおとなから「そんな大きな体をしているのに、何故、そんなにも気が弱いのか・すぐに泣くのか・体が弱いのか」「その大きな体は何のためにあるのか。びびるな」など、高身長であることを理由に、こうした言葉がけによく遭遇しました。なので中学生くらいまでは、身長にコンプレックスを抱いていました。そんな自分のことを周りは「一切」想像できていませんでした。私自身は、マイクロアグレッションの加害側にいた経験が多く、そのほとんどが無意識で、むしろ相手を誉めているという意図で加害におよんでいました。だから「相手の気持ちを考える」は、被害と加害の両側からして「あてにならない」と経験しており、それは確信に近いです。

 学校などで重要なのは、まずは多様な存在のことをインプットできる情報を提供すること、互いのことを「答え合わせができる関係や環境」をつくることだと思います。「自分は相手のことを、こう思った。でも、本当のところはどうなんだろう」と答えを知ろうとする意識と態度が育つように力をつけることも大切だと思います。ただし、「相手の気持ちにシンクロすること」が正解ではありませんし、そもそも、そんなことができるはずはありません。人権問題、差別問題は社会構造や制度に関する問題であるため、「心情」に重きを置くことは好ましくありません。思考を停止させず、考え続ける力を育ててほしいと思います。

 マイノリティがマジョリティと対等な権利や自由が侵害されたり制限されたりすることなく、行使できる・保証される結果となるよう、積極的な人権保障・差別撤廃の施策を進めていることについて、その施策が必要なエビデンスを詳細に把握しようとすることなく、表面的に見える政策だけを持って「逆差別・利権・優遇だ」と安易に主張しているおとなたちと、遅刻すること、早退すること、保健室にいる時間の長い子に「ずるい」という感情を抱く小学生との間で、現象面だけを捉えて判断しているという点で、そんなに差がないのかもしれません。何故、そうなのかを知ろうとしない、根拠不明の思い込みをもって判断しているパターンとしては同じだと思います。匿名やハンドルネーム等で身を隠し、家庭や職場などでは、とてもアウトプットできない表現を使ってネットを介し差別や誹謗中傷しているおとなたちと、先生や保護者らの見ていないところで、いじめや嫌がらせをしてしまう子たちとの差は、そんなにないのかもしれません。

 インターネットの投稿を分析している中で、「人・もの・こと」を見える部分だけで捉え、何もかもわかったかのようにアウトプットするおとなたちは増えているように思います。さまざまな選挙を取り巻く状況を見れば明らかです。フィルターバブルやエコーチェンバー現象がますます拍車をかけているようにも思います。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA