ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」105 「高市総理」が問う「男性優位社会」

「女性初」の総理大臣、「高市総理」の誕生

 日本ではじめて「女性」が総理大臣に選ばれ、誕生した。トランプ大統領が来日し、高市総理大臣が出迎えるなかで、トランプさんに「こびへつらう」ような接し方、多くのアメリカの兵士(いわゆる男性たち)を前に、拳を掲げ、「笑顔ではねまわる姿」を見た。この「高市総理」の「所作」に対し、高市さん、高市政権に懐疑的な人たちのなかから「日本はいつからアメリカの属国になったのか」「何故、トランプ大統領に媚びるようなことをするのか」「ゴマすり、おべんちゃら」「正視に堪えない」というSNSへの投稿やオンラインニュースで見た。こうした批判に私は疑問を抱いた。「批判するな」ということではなく、あの「高市総理」の「所作」は、トランプさんにだけ現わしているだけではないと思うからだ。男性優位な社会のなか、常に優位な地位にある男性たちの前で、あの「所作」ができないと、政治家として生き延びることができなかったのではないかと受け止めているからだ。

 高市さんといっしょにしないでほしい、「『女性』という括りで論評するな」などの声があることを踏まえてなお、恐れず言えば、今回の「高市総理」の姿は、「日本のなかの女性が置かれている現状」を象徴的に体現しているように思える。その意味で、「高市さん」は「男性優位の日本のなかの女性の体現」という点と、「総理」は男性優位社会のなかで「女性」が「個人」として評価されてつけるようなポジションではなく、総理大臣というポジションに限らず、意思決定権を有する役職に「女性」が就きにくい構造が存在することから、私は「高市総理」と表現する。100人の女性がいれば、100人すべてが同様の状態に置かれると言っているのではなく、構造的に男性には働かない構造が、女性には酷く集中的に働いているという事実を指摘している。データが明確に示していることを後述する。タイトルをあえて「高市総理が問う」としたのは、こうした文脈を理由としており、高市さん自身が男性優位社会に何かを問うているという意味で用いたわけではない。

 ちなみに、私は高市さんが掲げる政策については、肯定できるものもあるが、多くに批判的であること、また高市さんがこれまで積み上げてきた努力や実績の詳細は把握していないが、他者である私がそのことを無視・軽視しているわけではないことを述べておく。

 「高市総理」をめぐる男性優位社会の現状と課題について今の私の到達点で書いてみる。保険をかけるわけではないが、認識や捉え方のズレ、浅さ、弱さなどがあると思うので、ぜひご批判をいただきたい。

圧倒的「男性優位」な(政治の)世界

 改めて、「高市総理」は日本初の「女性」総理大臣となった。男性優位な政治の世界において、「男」にこびる、求められる「女性らしさ」を演じる、「男」に可愛がられる役割を演じるなど、「高市総理」はこの「所作」ができるから総理大臣になれたのではないか、この「所作」ができないと総理大臣になれなかったのではないかというように、これまで「女性たち」が置かれてきた実態からして、そのように捉えている。男性優位社会により、あの「所作」を構造的に強いられ、求められ、それを意識的にも無意識にも内面化し、ある面では「獲得」、ある面では「強制・強要」されるようになったのではないだろうか。また、「高市さん」は総理大臣に任命されるために、「高市総理」になることを「選択する」、あるいは「選択させられた」のではないだろうか。男性優位社会から求められるこの「所作」ができないと、男性優位社会のなかで仕事をもらえない、評価されない、地位を与えられないなどの不利な状況、浮上できない状況に置かれることは政治の世界だけでなく、事業所や地域などのあらゆる場に存在している。

「高市さん」が直面させられてきた差別

2024年9月23日に配信されたネット番組に高市さんが出演された際、次のようなことを述べられている。

「男の人ばっかりの飲み会って途中から下ネタになるでしょ?でその時に、私のリアクションが、そういう話に軽くのっていけたらいいんですけれども、下ネタになった時の私のリアクションがかたまってちゃうんで、しらけるんですよね。それがわかるんですわ。で、私はここにいちゃいけないちゃうかなと思って(中略)。でも今だって、先日あたりも飲み会あったけど、途中からなんか、はいてるパンツの色とかさ、なんかそういう話とか、エッチ系サービスの話とか、そういうデリヘルっていったっけ?なんだか私にはわからない世界の話がはじまった時に、でもそのなかに私もいるわけじゃないですか。そこで私がいたら絶対しらけてるんですよ。で、なんかみんなに悪い気がして「帰るわ」といって帰っちゃったり」。ここで進行役の男性が「それ帰っていいと思います。それは」というと、高市さんは「いやいやいや、なんかね」と返している。

2025年9月26日に配信された同番組に再び出演した際にも、次のようなことを述べられている。

 進行役が、番組によせられた意見のなかで、「未だ女教授が少ないのは、女が劣っているからだと言われる。高市さんは性別による偏見や制度などについてどう言い返すか、女性リーダーが真に評価され、男女問わず能力が評価されるようになるために、総理大臣として何か打ち出したい具体策があれば教えてほしい」というものを読み上げ、意見を求めた。これに対し、高市さんは、

「いやあ、私も散々ひどい目に遭ってきた。医師の世界でそういうことがあると聞いてきましたし、ドラマでもそういうことが描かれてたりしますよね。すごいくやしいです。うちの母親だって働いてましたけれども、こんなに努力してるのに、自分のほうが能力あると思うのに、何故か男性のほうが出世するって家で愚痴ってたこともあるし、私も、選挙に出る時に、女が国会に行って何ができる、罵声を浴びせられ続けながら、初当選までは酷いもんでした。当選した後、やっぱり国会の中で女性であることはつらいことがありましたよ。で、飲み会の付き合いが悪いと言われるんですが、当選して国会議員になって、ただやたら先輩方の飲み会によばれるんです。初当選が32歳で、30代ギリギリぐらいまでは、終わりぐらいまでは、なんかお酌係というんですかね、女やのに気がきかんなとか言われもって、何故か鍋をつくるとか。何で私がやらなあかんのと思いながらやってましたよ。そのうち飲み会やんなって、時間がもったいないから、で家こもって勉強勉強勉強をするから、歩く政策百科事典と言われても、人付き合いが悪い女として、そこの評判が悪いのは認めますが、なんかそういうことがしみついちゃったんですね。いざ初入閣で大臣になった時が一番くやしかった。私は、人一倍勉強もしたし、この分野でもイノベーション戦略をはじめてつくるっていうんで、イノベーション担当大臣、平成18年で初入閣はそれだった。その時に「どうせ女性枠だから」って男性議員から言われた。でもそうじゃないと。思ったんですが、どうしても女性枠という言葉がつきまとう。というのは、本当にがんばっている女性の方が実は傷ついていることで、女性枠をつくれ、女性のリーダーを増やすために女性枠をつくれという意見もあるんだけれども、私はやっぱり適材適所でいくべきだ。機会の平等、チャンスの平等。(中略)世の中の女性たちが理不尽な扱いを受けているとしたら、それは許さない。許さないですよ。だから、これは改善できる方法がないか、もっともっとないか、お声を集めて考えます。」

 繰り返すが、「高市総理」という「日本のなかの女性」が、「このような『所作』ができないと生き延びる・生き残ることができない政治の世界、社会」をつくってきたかと痛切に感じたのが、今回のトランプさんを前にして表現される「高市総理の所作」だった。このような「所作」を「高市総理」は強いられ、求められ、その選択をさせてきたのかと感じ、とても胸が痛くなった。また、未だこのような「所作」を強い続ける日本社会の「男性」であることを申し訳なく思い続けている。どれだけの「女性」が、男性優位な社会のなかで「苦しさ」「生きづらさ」「歯がゆさ」「落胆」「絶望」などを抱かされ、「ありたい自分」ではなく、「気に入られる女性」を演じることを強いられてきたのだろう。日本社会のあらゆるところで、この構造は存在し、働き続けており、いわゆる「男性」である私は「無関係ではいられない」。

 帝国データバンクが2024年に実施した「全国女性社長」分析調査では、調査に協力された約119万社の「社長職」の割合が、「男性」社長が92%、「女性」社長が8%と公表された。内閣府は、夫婦同姓性の日本社会において、制度上の婚姻関係となった男女のいずれが、相手側の姓に自身のこれまでの姓を変更しているかについて、いわゆる「男性」が「女性(妻)」の姓に変更した割合は5%、いわゆる「女性」が「男性(夫)」の姓に変更している割合が95%であったことを公表した。日本のジェンダーギャップは、最新の調査で118位、私が住んでいる三重県は、経済分野のジェンダーギャップが47都道府県中46位となった。DV被害、性暴力の被害が「女性」に酷く集中的に現れること、性暴力やセクシズム、ミソジニーやジェンダーロールなどが至るところに存在する今の日本は「女性差別大国」であるとの批判に、私は激しく同意する。同時に、他人事ではいられず、そうした社会の構成員であり、かつ男性優位な社会の「男性」であることについて、これらの構造等を未だ十分に変革できていないことに腹立たしさを覚える。

 自分の努力や実績を正しく評価されないなかで、苦しみ、歯がゆい思いをしながらも、それでも、男性に「こびへつらい、可愛がられる」ことで、地位を手に入れた結果、「女は楽でいいな。こびへつらえば、可愛がられることをしていれば、実績や能力とは関係なく、女性であることだけで権力者に気に入られ、地位を手に入れられる」と言われることがある。こうでもしないと認めてもらえない、のし上がれない空気の中で、自分を押し殺してたどり着いた先に、こうした攻撃すら待ち受けている。また、この「所作」をしていなくても、「どうでこびたんだろう」と言われることすらある。このようなことは、男性に対して発生することはないに等しい。

 なかには、「今の社会は、男性優位である」という主張に対し、それを否定する第一線に「女性」を置き、批判させる男性たちがおり、男性に気に入られるために、地位を手に入れるために、生き延びるために、その第一線で批判する役割を買って出る「女性」も出てくる。これは「女性」をめぐる問題に限らず、他のマイノリティをめぐる人権尊重の営みに関しても、同様の状況が見られる。マジョリティにとって都合の良い構造の維持のため、マイノリティが都合よく使われる、構造的に強いられる典型例だ。

「男性の責務」

 「女性」の権利が保障され、「男性」など属性によるギャップのない、対等な地位になるような社会の実現を求めること(今の「男女共同参画」のあり方には懐疑的です)、選択夫婦別姓を求めるなら、今回の高市さんの「所作」を批判するのではなく、その「所作」を強いられている、求めに応じさせられている「日本のなかの女性」に酷く、厳しく働き続ける社会構造や制度、観念を的確に批判する言葉を社会に向けて発信すること、その社会構造等の是正や改善に向けた政策を打ち出すことこそ、いわゆる「男性」がやるべきことであり、政治で言えば「野党」がなすべきことだと思う。これまで、そして今も、男性優位な社会から求められる「日本のなかの女性」でいる必要のない、「女性」であることへの評価ではなく、その人自身の努力や実績が正しく評価される社会の実現に取り組むことこそ、人権尊重を標榜する側に求められることではないだろうか。高市さんが生きづらさを感じてきたかどうかはわからない。しかし、この社会には、確実に求められる「女性像」により、苦難を強いられている「女性たち」が多くいる。長年にわたり、政権をにぎってきた政党は、今の状態をよしとしている。人権尊重を標榜する政党は、高市さんの所作を批判するのではなく、「『高市総理』の所作」を批判する言葉を男性優位な社会に向けて、抑圧される女性たちに向けて発していくべきであり、男性は「高市総理」を通じて、男性優位社会を批判し、自己のありようを批判し、本当にあるべき方向へと変革させていかなければならない。「女性」が男性優位な社会から求められる「女性」としてではなく、生きることができる、働くことができる社会をつくらなければならず、その実現は「男性の責務」である。

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