ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」46 先生方、ぜひお読みくださいpart2 これが人権・同和教育の一つの側面です

 学校教育に関して、子どもたちが暮らしでつながる、隠したり偽ったりせずとも知ってほしい自分たちで豊かにつながることなどをめざす教育実践がとても好きです。その目的を達成するための取り組みは、とても多様です。多様な取り組みの中で「一枚文集」というものがあります。教育の専門家ではない私なりに、この取り組みのあれこれを書いてみたいと思います。ちなみに、前回の「ゲストティーチャーとの打ち合わせの重要性」については、こちらです。

知っているようで知らないから始める実践

 まず、私たちは割と身近にいる人のことを知っているようで知らない場合が多くあります。あえて、特定のテーマについて質問したり話し合うような機会がないと、あえて語り合う、伝えることがありません。偶然、話の流れで、幼少期の経験などが語られ、何年も友だち関係や家族関係でありながら「知らなかった」みたいなことはありがちです。

 それは、子どもたちも例外ではなく、小学校1年生から6年生までの間、同じクラス、同じ学年で、同じ学舎で過ごしていたとしても、「お互いのことを知り合う」みたいなしかけがないと、かなり知らないことが多かったという6年生と出会うことが毎年あります。それなりの付き合いの期間があったとしても、意図的に知る機会がつくられないと、『暮らし、家族のことや家族との関係性、平日の学校以外の過ごし方、休日の過ごし方、習い事、趣味、社会経験、恋愛、挫折、悩み、困りごと、価値観、アイデンティティの形成過程』等々について「初めて聞いた」という感じです。

 学校であれば、一人の生徒のそうした多様な面のうち、ほんの一面だけが教師や他の生徒に認識されている程度であり、かつ「」に書いたような内容は、他者に知られたくない、知られてはいけない、話す機会がない、質問されるなどして自分でも初めて認識する・思い出すようなことがあるという意味で、お互いのことをほとんど知らないことが多くあります。私は、こうした「」のような内容でつながろうとする実践に、とても興味があります。興味があるだけでなく、このような実践は1年生からはじめ、積み上げていくものです。

 「一枚文集」の取り組みの基本は、先生たちによる子どもたちとの会話と対話です。小学校1年生や2年生の多くは、基本、先生が好きで、自分のことを見てほしい、知ってほしいなどの思いから、プライベートなこともお話ししてくれる子たちがいます。また、子どもたちに「昨日は何してた?」と学校が終わってからの過ごし方について質問をして、誰とどんなことをして過ごしていたのかを掴んでいこうとする先生もいます。子どものことを知りたいからです。学校で見られる子どもたちの姿は、極めて一面的です。どのような保護者のもとで育っているのか、どのような暮らしぶりなのか、保護者やきょうだいらとの関係性、クラスメイトや学校の生徒の中の誰とどのような関わり・遊びをしているのか、一人ひとりの生徒のことを知りたいという思いからスタートするものです。

 生徒との会話の中で、先生にとって「それを綴ったら」と思うような内容のものについて、一つのことに限定し、誰と何を、どのようなことをして過ごしたのかを綴らせます。この時、大切なのは「」をたくさん使うようにしています。登場人物との会話の具体的なやりとり、その場面に関する自分の思い方や捉え方などです。「嬉しい」「楽しい」「寂しい」「悲しい」などのような抽象的な表現を用いなくても、読み手が「」がたくさん使われた一枚文集で、綴った子が何を感じたのか、どのような感情だったのかが具体的にわかるようになります。会話と対話が重要なのは、その一つの場面を思い起こすのに、中立的な経験というものが忘れられがちです。思考力や想像力といった力の基底には、思い出し直し、思い起こしのような取り組みがとても大切だと思います。

 次の画像は、私の子どもが先生と思い出し直しをした学校以外の生活の一場面です。まず、小学1年生の子には「いもうと」がいることがこれで伝わります。保育園から一緒の子は、ある程度、家族構成は知っていますが、小学校から一緒になった子にすれば、全くわからないことだらけです。家族構成は自己紹介で済みますが、誰がいて、誰とどんな過ごし方をしているのかは、やはりこうした取り組みによって伝わります。

 うちの子はお絵描きが好きで、それを真似して下の子が画用紙にギザギザの字を書いています。保護者である私たちの語彙力の弱さが気になるところですが、「色使い、速さ、丁寧さ、特徴の捉え方、物を見て書かなくても何を書いているかがわかること」等々、自然と出てきた言葉とこれも伝えようと意識して伝えているものが混同して、子どもに向けて発しています。

 下の子に向けても、肯定的な言葉を投げかけ、それを真似して上の子が下の子に肯定的な言葉がけをしてくれています。

 褒められて育つタイプの子なので、褒められるとすごく嬉しそうな表情を見せます。「こころがあたたかくなりました」の表現は先生が一緒に考えてくれたようです。こうした子どもの姿は、このような取り組みなどの「しかけ」をしない限り、なかなか他の子には見えてきません。

 ましてや、友だちに暴力や暴言を発しやすいなどで「トラブル」になることが多い子は、極めて狭く一面的な側面のみで捉えられている状況が生徒たちのみならず、保護者間でも一面的な見方を持つようになっています。そんな子どもや保護者たちに誰の何をどう見せていくかということがとても大切になります。

 学年が上がると、さらに豊かな表現の一枚文集が出てきます。先生が積極的に生徒と話をすることで、生徒側も先生が自分のことを知りたいと思っている、それは大切に思ってくれている、自分に興味を持ってくれているなど、肯定的な感情を抱く子が出てきます。

 一枚文集などの取り組みを学校の文化にするべきです。同和教育推進校以外の学校には、多くの場合、学校教育としての文化がありません。管理職や教育委員会の役割です。

「生徒のプライベートに突っ込んではいけないと思っていました」

 つい最近、ある小学校の6年生にゲストティーチャーとして授業で話をしてほしいと依頼されました。中学校区内の全ての小学校で大切にしていこうという営みが決められていて、そのプロセスで同じゲストの話を聞くことも決まっている状態なので、依頼される先生は、私が何者でどんな話をするのかを知らずに依頼をいただきます。どんな人をゲストに招くか、どんな教材を使うか、どんな教育内容で1年間取り組むかは、基本「生徒の現実」からスタートされるものです。私の場合、それなりには子どもたちの現状に合わせて、自分の経験談のいくつかの引き出しを選ぶことができて、かつ、その引き出しを全開するか半開するかなどの加減もしながら話をするようにしています。

 打ち合わせをした6年生の担任さんは20代後半の方。「私は人権のことについて授業をしたことがないんです」と言われたので、こういう場合、たいていが極めて狭義で人権学習が捉えられています。「何をどうしていけばいいかなども教えていただきたいです」とも言われ、学校は何を・・・、教育委員会は何を・・・、と思いながらも、謙虚でこれからの人でもあり、やる気もあるので、先生が子どもの何を掴めているのかを聞いていきました。内容は、6年生から受け持った割には、6月の段階でそれなりに掴まれていたのは、この先生と生徒との「距離間」が近いことがわかります。今度は、その距離間は仕掛けによって縮まったのか、この先生が持つ若さや人間性なのかを確かめます。今回の場合は、基本、後者でしたが、子どもたちと話すことを大切にされていたので、意図はされていませんでしたが、前者も含まれていました。

 そう思ったのは、私がどんな話をしているのかを聞いてくれた際、「あ、同じような生徒がいます」と言われ、それを掘ったところ、生徒の言葉で「最近、親がケンカばっかりして、家にいづらいと思うことがある」ということを聞いているからでした。先生は、「あまりにもプライベートな内容すぎて、そうか」と聞くことしかできなかったと言われましたが、「これで本当にいいのか」とモヤモヤしていたと言います。

 「こんな時、どうしたらいいですか」と聞いてきたので、教師でない私は、「僕なら、まず詳細を聞きます。ケンカはいつ頃から始まっていて、どんな内容から始まっていって、どんなやりとりがあって、その時、どう思っていて、どう対応しているのか、何を望んでいるのか」などを聞きます。「ケンカ」と聞いても抽象的すぎてわからないことが多すぎます。この抽象的なことを割とスルーし続けている先生が多いこともありますが、それが良くないと思っています。掘ろうとしないことで、生徒の中には「興味がないのか」「結局、自分で何とかしないといけないのか」など、良い感情は抱かないことが多いと思います。

 詳細な内容を聞いた上で、「先生、保護者さんに話していい?」とも聞きます。生徒を主体に、生徒の意思を大切にしながら、望むことを聞きます。「うん」と言ってくれたらしめたもので、保護者が掴み取れていない、先生に初めて話をした子どもの悩みの事実を持って「家庭訪問」ができるわけです。そして子どもの悩みで話ができる、学校以外の暮らしのことで話ができるのは、保護者との「距離間」を縮めることができます。

 子どものリアルな悩みを先生から聞いた保護者の多くは、「私たちが知らないことを先生には話をしている」「だから、先生から子どもの内面的なことをもっと知りたい」と親側が先生を求めるようになってくるわけです。また、先生は保護者さんにも「喧嘩ってよくあるんですか」「どんな時にされるんですか」と、すぐには無理でも、関係が深まれば踏み込んでいけて、保護者も悩んでいたり、初めて話をできるみたいなことになる。うまくいけば、「一度、子どもと話をしてみます」とか、「せめて子どもの前では喧嘩しないようにします」と、子どもにとってストレスや悩みとなっていることが解消傾向や減少傾向になることにつながっていくこともあるわけです。場合によっては、保護者が仕事やパートナーとの人間関係で悩んでいたりして、ストレスや悩みを抱えていることが出てくるかもしれません。

 その後も、「最近どうですか」的家庭訪問ができていくようになります。ますます保護者との関係がつくられていくわけです。全てこんなにうまくいくとは限りませんが、一枚文集に始まり、目指す子ども像や集団像を実現するためには、さまざまな意図したしかけが大切だと思います。

 もっと言うと、先生たちが自身の経験や悩んできたこと、悩んでいることを子どもや保護者に開示したり、相談することで、距離間が縮まり、子どもや保護者から悩みを聞ける場面をつくり出すこともできるわけです。悩みやマイノリティ性などをカミングアウトすることで、相手から信頼や信用を得ることができます。だから、相手も開示してくることがあるわけです。

 こうした取り組みの中に、部落問題や障害者問題などがあるわけです。保護者の中から「私は部落にルーツがあって」とか、「海外にルーツがあって」などが出てくるということです。マイノリティ性だけでなく、被差別体験があったり、差別を受けること、子どもが差別に遭遇することへの不安があったり、こうであってほしいという子どもや学校、地域や社会に向けての願いや思いがあったり。人権教育は、特定の属性を有する人のための特別なものではありません。

絶対つくるべき実践のレポート

 そして、このような1年間の取り組みを活字でレポートとしてまとめることをお勧めします。というか絶対にやりましょう。4月当初、受け持った子どもたちの様子、気になる生徒の現状、課題は何で、これから何を目標にどう取り組んでいくか、意図的なしかけと、それによる子どもや保護者の反応、しかけ等によるクラスや生徒の変化や成長、残され次の学年に引き継ぎたい課題。おおむねこのような内容でしょうか。ここで大切なのは、「」をたくさん使うことです。生徒とどんな場面でどのようなやり取りをしてきたのか、教師は生徒の言葉に何を返し、どう受け止めたのか等で、先生と生徒の「距離」がわかります。

 保護者とのやりとりもです。保護者とどのような場面で、どのようなことを聞き、自分はそれにどう返し、どう受け止めたのか等々で、今度は先生と保護者との距離間が見えてきます。

 活字でまとめていくので、他者に見てもらうことができ、「この時、こう返していたけど、こう返した方が良かったのでは?」とか、「この受け止め方、これでええのかな?」とか、「ここで家庭訪問に行かないと」とか、「ここで生徒と話しないと」とかを教えてもらえるわけです。自分で見ても、いかに自分が子どもや保護者との間に距離があるかとか、それが縮まった瞬間のことを振り返れたりとか、メリットしかありません。

 そして、この「1年間の実践」を次学年や中学校に引き継ぐことが「引き継ぎ」です。生徒の課題面ばかりを並べた引き継ぎは、引き継ぎではありません。それでは何も積み上がりません。かえって次の担任にバイアスを植え付けることになる危険性もあります。

 先生のためであり、生徒のためにもレポートは絶対につくりましょう。

 今回の内容、特に若い先生たちに読んでもらいたいですね。

 ご覧いただき、ありがとうございました。

 

2件のコメント

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