ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」5 差別解消の責任をマイノリティに課してはならない!

 同じ反差別の活動をしている仲間、友人・知人らから、よく聞かれる出来事のなかに、まるで被差別の側に差別解消の責任があるかのようなアプローチをされることに「不快感をもった」「腹が立った」などのエピソードがあります。最近も割とよく聞く出来事です。

 例えば、差別問題は、マイノリティが被差別体験や差別を受けることへの不安、問題の歴史や運動のことなどを語らせることを前提とした講師の依頼があったりします。まるで被差別当事者のあなたなら詳しく知っていて当然でしょと言わんばかりに。

 要は、「私は被差別当事者ではないので、あなたたちの気持ちがわからず、経験もない。だから、あなたたち被差別当事者がどんな差別を受けたのか、どんなことが心配なのか、どんな場面で生きづらさを感じるのかなどをこちらに教えてくれないと、私たちは何を考え、どう行動していけばいいかわからない」と思っているわけです。こんなふうに書くと、いかに被差別当事者に語らせることを前提とした言動が「加害性」を持つかがお分かりいただけると思います。マイノリティ性を有する人が怒るのも当然のことです。差別の原因を被差別の側に求めるようにも感じ取れます。差別は、マジョリティがつくり、支えているものであり、マジョリティになくす責務や努力が求められるものです。

 人権学習の進め方の相談、生徒などのなかにマイノリティがいることがわかった際の対応などを、自分で考えたり、調べたりすることを放棄して、他のマイノリティに教えてもらうことを前提に聞くことを当たり前にしている、というものです。他にも「私は人権問題のことがわからない」と、一見、謙虚そうに見えて、実は自ら能動的に「わかろうとしていないパターン」もあります。学校で人権学習を受ける機会がなかった人はいて、そのことを問題にしているわけではありません。学校以降のことについてです。

 人権問題の基礎基本を学べる書籍は多々発刊されています。視聴覚教材はいくつも世に出ています。そうしたものを読んだり見たりした上での「まだまだ、わかっていない」はおそらく謙虚な姿勢です。でも、読むことも見ることも、知ることもしてこなかったなかで、マイノリティから学ぼうとするスタンスは、マイノリティに差別解消の責任を負わせているという「加害性」を有することに気づいていないことが重大な問題だと思っています。

 上智大学の出口真紀子先生から「マジョリティの特権」を職場の研究会や講座などで毎年学ばせていただいているなか、私なりの解釈で、ここで指摘していることの何が問題なのかを整理してみます。

 まず、人権問題のことを「知らない」ということが、どのような結果を招いてきたのかを考えて見ましょう。「知らない」ということは「知らなくて済んできた」とも置き換えることができます。それは、マイノリティに襲いかかる差別に対して「何もしていない・してこなかった」とも言えるわけです。つまり、結果的に差別に加担する、差別を容認する側に立ってきたとも言えます。これは、マイノリティが差別を被り続けるという意味で重大な問題です。

 また、被差別の側に差別をなくす責任を負わせ続けてきたということです。同和地区所在地情報に関する訴訟、ヘイトスピーチに関する訴訟、ハンセン病家族訴訟、同性婚訴訟等々、差別や権利侵害への闘い、マジョリティには当然のように享受されている権利の獲得のために時間・労力・費用を負担させられています。

 マジョリティがつくり、支え続ける差別なのに、解消の責任がマイノリティにしわ寄せされるなどあってはならないことです。

 マイノリティがどのような場面で、どのような差別を受けるのか、どうして生きづらさを感じさせられるのかをマジョリティが理解できていない場合、その多くは、マジョリティがマイノリティに対する差別やマイノリティの生きづらさを無意識に支える側に立っているという結果になるわけです。

 まずは、マジョリティが研修や講演会などに「動員」で参加する以外にも、知るための努力を重ね、それでもわからないことがあるため、マイノリティに語ってもらうというスタンスが重要であり、自分にできる努力を惜しんではなりません。

 また、学ぶだけでは差別はなくなりません。インプットしたものをアウトプットする、社会変革をめざすマイノリティ運動に賛同・参画するなど、私自身も圧倒的に多いマジョリティの立場から、差別解消の努力を続ける責任があります。

 ぜひマジョリティの特権について、深く学ぶことができる本がありますので、紹介しておきます。おすすめです。


 ご覧いただき、ありがとうございました。

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