差別問題に関して「特権」という概念があります。前回、ご紹介したように、上智大学の出口真紀子さんが日本の第一任者です。「特権」についての私の解釈は、「努力せず偶然に得た属性がマジョリティ(例えば、日本人、健常者、異性愛者、シスジェンダー、被差別部落にルーツのない人たち、感染症等に感染したことがないなどの非患者等)であることによって、特定の社会で自動的に得られる、あらゆる優位性や恩恵」です。
まず、次の8項目に幼少期のご自身が該当するかどうかチェックしてみてください。
①両親が離婚をしていない経済面等で「安定」した環境で育った
②学習塾に通っていた、通おうと思えば通えた
③高校や大学の学費は保護者が全額負担してくれた
④経済的な理由で家に食べ物がなかったことがなかった
⑤ガスや水道・電気を止められたことがなかった
⑥家族から虐待を受けたことがなかった
⑦家族から過度な干渉を受けたことがなかった
⑧ヤングケアラーではなかった
この8項目がすべて該当する方(以下「該当者」という。)は、ご自身が何か努力して得たものではなく、該当しなかった方(以下「非該当者」という。)は何か努力をしなかったので得られなかったわけではありません。しかし、両者には、間違いなくスタートラインに差が生じます。下の図のように、徒競走のような綺麗なスタートラインが用意されているわけではありません。
該当者は優位な位置から、非該当者は該当者よりも後方で不利な位置からスタートを強いられます。そして、該当者がわずかな努力で達成できることを、非該当者は何倍も努力しないと達成できないという不平等を生み出します。
該当者は、こうした「特権」に気づきにくく、自己責任論やマイノリティの声を「偏っている」と処理するマジョリティは、大抵が「特権」に無自覚です。この社会は、マジョリティに優位に傾いています。
部落問題で特権を考えてみると、
①被差別部落の出身ではない(以下「非出身」という。)ことを誰かにカミングアウトをする必要がない
②非出身を理由に偏見・ステレオタイプで見られない
③非出身を理由に差別を受けない
④非出身であることを子や孫に伝える必要がない
などです。
特権の有無や特権を有する数によって、この世に誕生した時点で、これほどの差がついているということです。優位な位置にスタートラインが用意されている人が後方にいる人たちに自己責任を押し付けることの加害性は一目瞭然です。経済的不利な環境で育っても文化的に優位だった人が、努力や自己責任を主張するパターンも同じです。自分にはどんな特権が用意されていたのかを自覚できていないパターンです。この不利が後方にいる人たちには認識できるので、この社会は諦めざるを得ない状況に追いやられます。
スタートラインの違いだけでなく、人生のさまざまな場面でマイノリティは、壁にぶつかるため、乗り越えたり迂回したり穴を掘って下から潜ることなどしないといけない状況に置かれていますが、マジョリティは壁のない最短ルートを進めるということです。
この社会には、「特別な支援や配慮が不必要な人と、特別な支援や配慮を必要とする人がいる」という捉え方は違うと思っています。
本来は、「努力せずとも多くの『特別な支援や配慮』がすでに用意されている人たちと、前者にすでに用意されていることが、未だ用意されていない人たちが社会的に存在させられている」ということです。
「自分は差別をしていないから関係ない」「寝た子を起こさない方がよい」などは、今ある差別に何もしないという点で、「現存する差別を肯定してしまう」結果を生むだけでなく、前回、ご紹介したように「差別を受けている・受ける可能性のある被差別の側の人たちに、差別問題解消の責任まで押し付けてしまう」という「加害性」をも生み出します。
差別問題に「中立(ニュートラル)はありません。私たちは常に差別を「残す」側か、「なくす」側かを問われています。
詳しくは前回もご紹介した、この書籍に書かれていますので、おすすめです。
ご覧いただき、ありがとうございました。