仕事を始めて、かれこれ18年。たくさんの学校にお招きいただき、たくさんの子どもたちに出会わせてもらっているなかで、学校の人権・同和教育の実践の中で「先回りしない」と「答え合わせ」というものが、とても大切な営みであると私は考えています。
前回のは、「一枚文集」に関する内容は、こちらです。前々回の「ゲストティーチャーとの打ち合わせの重要性」については、こちらです。
「多様とはこういうことを指すのだ」というように、十人十色の暮らし、環境、価値観、考え方、性格、属性を有する子どもたちと出会います。そんな子どもたちも、すでに偏見や思い込み、決めつけを持たされている様子を見せています。とりわけ、一緒に学校で過ごすクラスメイトへの決めつけは、かなり強めに作用している姿があります。さらに、そのバイアスは、クラスのアベレージにいる子にも及びますが、個性や特性が目立つ子に、より強く作用している場合があります。学校で友だちが見せている姿、現象面だけを持って「あの子はこういう子だ」と思い込む、決めつけるという感じです。長年、一緒に過ごしていたとしても、学校側が子どもたちの互いの暮らしを交流しあえる関係や集団をめざすというようなねらいを持った実践が展開されていない、個々の子どもたちが何に悩み、何に困り、何を誰に知ってほしい、伝えたいと思っているのかを引き出し、聞ける関係性づくりが展開されていないと、ほぼ間違いなく、お互いのことを知り合えていません。
上っ面しか認識できていない関係
私はゲストティーチャーとして招かれ、総合の授業などで子どもたちに話をする機会がある場合、たまに「隣に座っている子の何を知っているの?」と聞くと、「この子は走りが速い」「この子は国語が得意」「この子は本を読むのが好き」「この子はよく発表する」みたいなものばかりが出てきます。また、「隣に座っている子は、自分の何を知ってくれているの?」と聞いたりすることもあります。これを見てもわかるように、このような子どもたちから出てくる話は、私が1日・2日、学校にいればわかることが大半です。6年間一緒にいても、お互いのことを知らないこと、自分自身から友だちに内面的なことを伝えていないことを認識してもらおうと思い、投げかけます。しかし、この状態は好ましくありません。ゲストティーチャーの仕事ではないからです。このようなことは、学校側が1年生の時から6年生になった時の子どもたちを見越して、丁寧に着実に積み上げていくべきことです。6年生になってから考え始めるものではありません。学校としての文化となるレベルになるように管理職が定着させていこうとすることが求められます。個々の先生が個々にやることではありません。
「相手の気持ちを考えよう」への疑問
「相手の気持ちを考えよう」、こんな学級目標があったり、先生から子どもたちに投げかけがあったりします。「こんな場面だと友だちはどう思うのか」「こう言われると友だちはどう感じるのか」を想像する、考えることは大切なことだと思います。でも、その想像や考えは、本当に「正解」なのかに疑問を持ってしまいます。こちら側が想像しているようなことを、本当に相手は思っているのかということです。「言われて嫌なこと」を想像することは容易いようでそうでもない側面もあって、私が高身長で悩んできたことなどは、想像すらされていませんでした。むしろ「褒め言葉」がマイクロアグレッションになっていて、そんなことは日常的に起きています。海外にルーツのある子に「お箸の持ち方が上手」「日本がうまい」などの「褒め言葉」と認識されがちなことが、日本生まれ日本育ちの海外にルーツのある子どもたちにとっては、侮辱的なメッセージなるわけです。相手の気持ちを考えるということが、思い込みや憶測の領域で終わってしまう、場合によってはマイクロアグレッションになっていることまで考えていく必要があります。人の気持ちを想像することと、それが「正しい」かどうかは必ずしも一致しません。
「事実」にこだわる、蓄える
学校の先生たちの中にも、子どもの心情を想像するような話が出てきます。でも、それは割と思い込みや憶測である場合が少なくありません。子どもたちが学校などで見せる、学校や先生によって「課題」とされていることについて「分析」したことを話してくれる先生もいます。「この子は、こう考えていると思います」「こういうことではないかと思います」の「思います」であることと、「こう言ってました」「こうです」は大きな違いがあるわけです。同和教育は「事実を蓄える」ことを大切にする営みです。「今日もあの子が机にいない」という現状に対して、かつての先生たちは「学校にきたくないのだろう」と、具体的な理由を知ろうとmしない状態でしたが、ある先生は、「何故、学校に来ないのか」をただ単純に知りたいと思い、家庭訪問に行くと、今でいう児童労働で、子どもも家計を支える労働者の一員であったり、保護者が働きに出ている間、学校よりも小さなきょうだいのお世話をしていたりするなど、学校よりも暮らしを優先しなければならない生活状況が見えてきたり、保護者が子どもを学校に通わせることに意味や意義を持っていなかったりと、子どもたちが学校に来れない「わけ」という「事実」が明らかになってきました。思い込みや憶測ではない、子どもの暮らしの「事実」、親の生活状況や悩みなどの「事実」、子どもたち自身が何を思い、何に困り、何に悩んでいるのかの「事実」を積み上げていくことが重要であることを説いた教育実践が求められているということです。
大切なキーワードの一つめは、
「先回りしない」
です。子どもたちが何を考え、何に悩んでいるのかを、私たちおとなは経験などから、さまざまな想像を掻き立てて、「きっとこうだろう」「こうに違いない」というような「先回り」をしがちです。予測を立てること自体、問題だということではありませんが、その予測はバイアスでもあるため、そうでない可能性が十分にあり得るわけです。
先回りの失敗エピソードを割と知っていて、一例を挙げてみます。
私のいとこのことで、この子が高校に入学して間もなく起きた事例です。ある高校の、昔から運動関係者とのつながりもある人権担当の先生が、私のいとこのことを知っていて、このいとこが被差別部落にルーツがあるというマイノリティ性を有しているということを認識していました。先生なりに、できるだけ早い段階で、いとこを他の生徒たちと、マイノリティ性でつなげたいという思いを持っていました。「この子は将来的に差別に出会うかもしれない」という先生の思いは、「この子はとてつもなく重いものを背負わされている」という認識となっていました。ところが、いとこの当の本人は、ルーツがあるという自覚はあれど、部落外生まれ、部落外育ちという環境の中で、親からも特に部落問題に関するアイデンティティの形成に影響を与えるような話はほぼない中で、差別のことをとてつもなく重いものとは捉えていませんでした。先生の勢いは止まらず、ほぼアウティングに近いかたちで、いとこが偶然、海外にルーツのある子と話をしていた時、先生から人権学習の話を出し始め、海外にルーツのある生徒に対して「この子(いとこ)もとても重いものを背負ってるからな」と発言します。先生といとことの関係は、これでほぼ途絶えました。「先回りして創造したり思い込んだりしていることは、必ずしも正解とは限らない」、当然のことですが、案外、先回りしているパターンは少なくありません。時間をかけて、相手はどんな考えや価値観、経験、アイデンティティを有しているのかを丁寧に把握していくことが大切です。私のバイアスであることを自覚の上での考えとしては、小学校より中学校、中学校より高等学校の方が、事実の蓄えがない個人的な思い込みや憶測を語ってしまう先生が多いというのが個人的な実感です。
「生徒は先生に、どんなことを話していますか」「先生は、生徒からどんな話を聞けていますか」
私は、「思い込みや憶測」「先回り」「分析」の話が出てきた時は、一応「この先生はこう思っているのだ」と一旦、受け止めた上で、「先生の分析や想像はわかりました。実際に、生徒は先生に、そのことについてどう言ってますか。どう思っていますか」と聞くようにしています。この問いかけに対して、「生徒は、こう言ってました。こう書いていました」という話が出てくると、生徒と先生の関係が少し見えはじめて「先生と生徒は、この部分ではつながっているんだ」ということがわかってきます。一方で、「生徒からは聞いたことがありません」みたいになると、それはそれで生徒と先生の関係が、今はそのような状態なのだということも見えてきます。生徒が先生に話そうとは思っていない関係、あるいは先生側が生徒に関心がない、生徒のことを知ろうとしていないなども見えてきます。自分に関心を寄せてくれない先生に生徒が困りごとや悩み事を打ち明けるはずはありません。
2つめのキーワードは、生徒や先生による、
「答え合わせ」
です。「こう思っているだろう」という相手の気持ちの想像は、本当に正解なのか、これを確かめる必要がある。答え合わせのために、事実を確かめようと思うと、相手が本心を打ち明けてくれる関係がないと出てこない、それは「生徒が言ってこないから」などの「生徒まかせ」では何も進みません。目的意識を持った先生たちからの「しかけ」が必要になる。
まとめていくと、「事実にこだわる」「事実を蓄える」「事実を積み上げる」ということです。これからの実践の参考にしていただければ幸いです。
ご覧いただき、ありがとうございました。