ヒューマンライツ情報ブログ「Mの部屋」37 先生方、ぜひお読みくださいpart1 学校とゲストティーチャーとの「打ち合わせ」は必要不可欠!

 ゲストティーチャーとして、学校に招かれる際、子どもたちことについて打ち合わせをしない学校のまずさ・しんどさを、この間、痛感してきています。しんどさで言えば、特にマイノリティ性を有する子どもや保護者がしんどい状況に置かれているパターンが圧倒的に多いという状況です。「ゲストティーチャー」から学校に向けて「打ち合わせをお願いする」のは、順序どころか本質から誤っていると思っている側です。これが正しいかどうかはわかりません。

 学校や先生を「ディスる」ことを目的にしているのではなく、学校や先生が何を大切にしていくべきなのかを考えてもらいたいと思い、書いてみます。

 例えば、小学校にゲストティーチャーとしてお招きいただく場合、5年生と6年生の子どもたちに話をしてほしいという依頼を受けるようにしています。

 当日までの間に、どんな子どもたちがクラスにいるのか、1年生の時から学校のどのような実践が展開され、子どもたちに何がどこまで積みあがり、どこに到達できているのか等を知っておかないと、話をさせてもらう側として、とても不安です。例えば、家族を自死や事故、病気で亡くした子がいて、その出来事に向き合いきれていないような子がいた場合、私の話によって傷ついたりフラッシュバックしてメンタルがやられたり、5年生で言えば部落問題に触れてよいのか等々です。私の話によって、子どもを傷つけてしまうことがとても不安で心配になります。どんな子どもが学校にクラスにいるのかを知っておく必要があると考えています。だから打ち合わせは、とても重要です。

 打ち合わせはゲストティーチャーのためではなく、子どもたちがゲストティーチャーの話の何にひっかかったり気づいたり感じたりしたのかという「子どもたちのため」に必要だと思っています。また、先生方も、どの子に何を感じさせたい、気づかせていきたい、くらしや親の何を見つめさせたい等、ゲストと先生との間で共有しておくべきこと、共通のものさしをもって子どもたちに出会わせることが大切だと思っています。

 打ち合わせは、ゲストティーチャーがお願いするものではなく、学校がぜひ聞いてほしい・知ってほしい、こんな子がいるから、ゲストの体験のここを強調してほしいなどを理由に、「学校側から」依頼するものです。

 私は決して「いい話をしていない」自信があります。ただただ、一度も出会ったことのない人間の経験談を、はじめて話をする子どもたちにどれだけ丁寧に伝わるかを意識すると同時に、他人の話を聞きながら、自分のこと・くらしのこと・親のことなどをどれだけ丁寧に振り返り、思い出し直しを、見つめていこうとすることにつながるかを意識して話をする「だけ」です。

 だから、先生たちが、どの子に何を聞かせたいかなど、どのようなねらいをもって臨んでいるか、ゲストの話をもとに、これからどのような集団づくりをめざすために、個々の子どもたちが社会を主体的に生きていけるような力をつけていくための肥やしにしていくのかは、明確な目標や視点をもって臨むかは極めて重要だと思っています。

 ゲストティーチャーの話をきっかけに、子どもたちから何かを引き出そうとする場合、それそのものがいけないというわけではありませんが、結果的に聞いて終わりという状況の学校をわりと多く見てきました。ゲストきっかけであっても、よい例でいえば、すでに子どもたちとの距離が近づいている、子どもが何に悩み、何に困っているのかを聞ける関係をつくれている先生であれば、話を聞いた後に子どもたちにつづらせるものの中に、自分の悩み、くらしや親のことが書かれていきます。そして、その内容をもとに、非常に深くて豊かで本来、つながっていきたいところで先生と生徒がつながり、またくらしのこと、一番ひっかかっていることで会話が成り立つ。そして、この子とあの子をつなげたいとか、また具体的な目標が見えてくるわけです。

 学校では、ゲストを招くことに限らず、さまざまな「行事」が組まれています。本来は、一つひとつの行事が着実に子ども個人や集団の力をつけるようなものになるよう企画されてきているはずです。

 「何のために、この学年でそれをするのか」「この行事をするに至ったのには、その行事を必要とする『理由』があった」「つまり、学年も個々も違う、子どもや子どもたちの現実や課題、親の現実や課題があった」

 はずなので、そうしたことを大切にしていこうとならないと、「学校や教師の側も、何を意味するのかわからずに、引継ぎで、ただただ漫然と行事を消化するだけ」になってしまうと、学校・先生・生徒・保護者にプラスになることはあまりなく終わってしまうと思っています。

 懸念事項は他にもあって、子どものなかには、くらしや親との関係性の影響や環境によって自己表現がうまくできず、他の生徒に暴力的な表現におよんだり、場合によっては何年か前にあった「いじめ問題」の加害側に至る子どもたちがいます。何故、そのような表現しかできないのかなどを丁寧につかむことはもちろんですが、以前、いじめ問題に関わらせてもらった際、加害生徒のなかに、被差別部落にルーツのある子がおり、いじめを受けている側の保護者から「部落の子だから、あまり関わるなということを言っている身内がいる」と聞かせてもらったことがありました。

 残念ながら、被差別部落にルーツがあることや海外にルーツがある、シングル家庭であるなどの理由だけで、同じいじめや荒れなどの行為に及ぶ子どもたちを見るまわりの視線は、今もそのような意識にもっていかれることが実際にあっただけに、詳しく知った上で、ゲストから発信するメッセージを誰に向けるのかは、とても重要です。

 私が打ち合わせで、お聞かせいただきたい内容等は次の通りです。2回めですが、これが正しいとは限りません。

①クラス全体はどんな様子でしょうか?

 これは打ち合わせ全体の1割程度でよいです。

②5・6年生に1年生の時から何が積みあがってきましたか?

 これまで5年生や6年生に向けて、1年生のころからどのような実践が積みあがっていて、今どこに到達しているのか。学校として子どもや保護者の何をどこまで把握できているのかをこれである程度掴むことができます。(打ち合わせ全体の3割程度を聞きたいです)

③子どもや保護者の何を「知っていますか」<「聞けていますか」という実践

 一番知りたいのは、先生が特に気になる生徒の悩みの何をどこまで聞けているのか、くらしの何をどこまで聞けたり把握できているのか、保護者とどのような内容で会話できているのかです。誰にも言えない悩みを聞けていることが実践です。

 差別解消3法でも「相談」という条文が共通していますが、めちゃくちゃハードルの高い取り組みだと思っています。ましてや社会意識をどんどん吸収していったおとなが、自分の悩みごとや困りごとを他者に「相談」するのは、世界記録級の高さです。「相談」できるのは信頼できる人であり、容易にできるものではありません。

 簡単に他者に話をできないプライベートなこと、コンプレックスのこと、くらしのこと、おいたちのこと、被差別体験のこと、加害経験のことなどを子どもや保護者から聞くことができている先生は、それだけ丁寧に時間をかけて信頼関係を築いてきた実践があるということです。

 ちなみに、私にとって学校・先生の「禁止ワード」があります。それは子どもや保護者と、

「関わる」「寄り添う」「つながる」

です。実践を積み重ねている先生や学校では、こんな「抽象的な言葉」を使わなくても、先ほど書いた内容で見えてきます。「関わっているか」「寄り添っているか」「つながっているか」は先生自身で使う言葉ではなく、その先生の実践を見聞きした第3者が使うものだと思っています。

④誰にどんな力をつけたい?そのために何に取り組んでいる?

 先生は、誰にどんな力をつけたいか、そのためにどのような取り組みを進めているのか、しかけているのかの目標を明確にし、達成するための実践を積み上げることです。(③と④で打ち合わせ全体の6割です)

 特権について書きました(こちらです)が、最も特権をもっていない子どもに、どんな力をつけたいのか、この時代に対応できるようになるためにも、どのような力をつけなければならないのか、社会の現実と、子どもや保護者の現実を丁寧につかみとらないと導き出せない目標です。

 サービス業は次々と無人化に向けて動き出しています。例えば、タッチパネルでの注文や、セルフレジなどが主流になり、アルバイトを要する条件下に置かれた子どもたちが今や将来のために貯蓄する場所を見つけることが大変な状況となってきています。こうしたなかで、どんなキャリアビジョンを描いていく必要があるのかなど、目標設定は今のままではいかないと思います。また、子どもたちに実践する中身も行事も時代とともに変化してこなくてはいけないわけです。

 これがダメだと言っているわけではありませんが、先生たちの多くは小中学校、高校、大学を経て教員となるため、社会経験が少なかったり、社会のことを肌身で感じる機会が少ない業種と言われています。自治体職員も似ています。だからこそ、社会で何が起きているのか、現場で何が起きているのか等々、知るべきことがたくさんあります。

⑤学校・教師の一丁目一番地は、「子どもや親の責任にしない」こと

 このブログで前回書きました(こちらです)が、「学校・教師の一丁目一番地は、『子どもの責任にしない。親の責任にしない』」ことだと思っています。丁寧に深いところで子どもとつながり、保護者とつながり、子どもがつながっていく実践が、豊かな集団が確立され、互いを支え合い・高め合い、差別を許さず・なくす行動に動き続けるハイレベルな集団づくりによって、低学力傾向が克服され、一人ひとりの子どもが明確なキャリアビジョンを描き、学校卒業後の生き方とくらしが豊かなものとなる結果を見せることが人権・同和教育推進校やマイノリティの多い学校の実践であってほしいと思っています。

 学校における教育活動の成果と課題は、子どもたちが社会人となった時、あるいは保護者になった時に端的に現れると思っていますし、実際に青年たちの姿から感じ取っています。貧困の世代間連鎖は断ち切れたのか、低学力傾向を生み出し低い自己肯定感に及ぶ子育てスキルや育児スタイルは、どこまで乗り越えられたのか、学校や先生には、それができるわけです。学校や先生だけでできないこともあるので、ゲストや地域の力にも頼るわけです。

 すべては「子どもたち」のためです。そのための取り組みが「先生のため」に、先生という枠を超えて「わたしのため」になることを、豊かな実践を重ねてこられた先輩たちは実感されています。だから大切さを説くわけです。

 結論は、「ぜひ一緒にやっていきましょう」です。

 ご欄いただき、ありがとうございました。

3件のコメント

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA